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  二つの世界のはざまで

 

              ながのとしお

 

 

 その日も宿の食堂で、昼間からひとり酒を飲んでいた。

 宿の人間も奥に引っ込んで、ガランとした、屋根だけの食堂で、ひとり飲む酒は胃にしみた。決してさみしいのではない。目を閉じ、酒を味わい、ふりしきる雨の音に耳をすますと、しかし、何か名前をつけがたい微妙な気持が心の中に沸き上がってくる。その気持に名前をつけようとする自分を敢えて抑え、心の闇の中でぼんやりと漂う、その形のないものに身を任せると、不思議なことに、左の目からだけ涙がこぼれた。悲しいわけではなかった。そして、左頬を伝う涙の感触を追っているうちに、心の中の形ないものは、次第に薄れていった。

 

 少し雨足が弱まったところを見計らってか、傘をささずに女が食堂にやってきた。二、三日前からこの宿に泊まっている客だ。入り口の辺りで立ち止まり、髪を直している。こちらの様子をうかがっているようでもある。俺は俺で視線を泳がせながらボンヤリ見ていると、女は会釈して近づいてきた。

「こんにちわ」女は聞き取りにくい小さな声で挨拶をした。

「ああ、どうも」俺がこたえると、女は仕種で座っていいかと尋ねるので、俺も黙って頷く。

 女は俺の真向かいに横を向いて座ると、しばらくの間、海に雨が落ちていくのをじっと眺めていた。俺は女の横顔をじっくりと見た。大きな目に高い鼻、整った顔立ちをしている。歳は三十代半ばか、旅慣れた様子で、自分のための世界をしっかりと持っているだろうことが静かに伝わってきた。

 女はこちらに向かって座り直すと、俺の目をしっかりと見て言った。

「今頃は雨が多いのね」変わらず小さな声だった。

「ああ、あと三月くらいは雨期が続くからな」

「南の国の強い日差しと青い海を期待してたから、ちょっと失敗しちゃったな」女は軽く首をかしげ、顔には少し引きつった感じの笑みを浮かべて言った。椅子の下で足をブラブラと揺らしている。小柄なので欧米人向けの椅子は大きすぎるのだ。

「別に失敗とは限らない」

 俺が言うと、女は、どうして? という目で俺を見た。

「この二、三日は、ほとんど雨ばっかりだったが、じき強い日差しがやってくるさ。毎日照りつける日差しもいいが、雨と太陽が交互にやってくるのも悪くないからな」「そうかもね……」おんなは軽く首を振りながら小さく言った。

「あの、名前はなんていうの?」

「たぬ兵衛って呼んでくれ」

「たのべえ?」

「たぬきのたぬ兵衛だ」

「まじめな顔して面白いこというのね」女は高い声でケラケラ笑った。

「別に面白がってもらうために言ってるわけじゃない」俺はやや憮然としてこたえた。

「でも、ちっともたぬきっぽくないじゃない? そんなに細い体だし、顔だってねえ」

「名が体を表すとは限らんからな」

「それはそうだけど……」

 女は口をつぐみ、その大きな瞳で俺の体を一通り眺めた。俺のたぬき性を見透かそうとしている目つきだった。「じゃあ、あたしのことは、つね子って呼んで。きつねのつね子」いたずらをする子どものように目を輝かせて女は言った。「たぬきときつねで化かし合いでもしましょうよ。時間はたっぷりあるんだし」

「化かし合いをするためにたぬきをやってるわけでもない。時間がたっぷりあるのはそのとおりだがな」

「素直じゃないのね……」女は視線を下に落として、呟くように言った。

 俺は、うつむいた女の顔を、しばらくじっと見ていた。今にも泣き出しそうな顔に見えたが、それは俺の錯覚だったろうか?

「雨もやんだし、散歩でもするか」俺は女を誘うでもなく一人言のように言った。女はこちらを見ると、小さく頷いた。

 

 浜辺に降りると、雲の切れ間から日が射し、波がキラキラと陽光を反射していた。二人してしばらくの間、口も聞かず、ゆっくりと波打ち際を歩いた。他には人影もなく、寄せては返す波の音だけが世界を包んでいた。

「はだしなのね」うつむいたままで女が言った。

「ああ」

「サンダルもはかないの?」

「島にいるときは、まずはかないね」

「ふーん」

 女は何か言いたそうな顔をしていたが、言葉を続けず、黙ったまま歩いた。俺は自分がはだしになりはじめた頃のことを思い出しながら、やはり何も言わずに歩いた。 二十代半ばのことだった。はじめはまず、靴下をはくのをやめた。安物の運動靴をかかとを潰して素足ではいてみた。しかしそれはうまくなかった。夏場だとすぐ足が臭くなるからな。それで、たまたま実家に行ったときに、親父の使ってない皮のサンダルをみつけて、それをはくことにした。冬にはすこし寒かったが、それもじき慣れた。さすがに雪が降ると足指がかじかんで、感覚がなくなりもしたが。

「ちょっと海に足をひたそう」女はそう言ってサンダルを脱ぎ、薄いズボンの裾をくるくる巻き上げると、海に入っていった。俺も黙ってその後を追った。女は水が膝辺りまで来るところで立ち止まり、水平線の方を見ていた。女の左側に立って、俺も水平線を見やった。

「あたしの彼さ、いっつもはだしなんだよね」女は〈いっつも〉という言葉に、困ったような、腹立たしいような気持を込めて言った。

「ふん、いっつもね」

「そう、いっつも。知り合って五年くらいになるけど、一度も何かをはいてるとこってみたことない」

「それはすごい」

「すごいっていうか、かなりの変人……。だからってわけでもないけど、しょっちゅうケンカばっかでさ」女はこちらをチラリと見て首をすくめた。俺は何も言わず、女が言葉を続けるのを待った。

「いまもケンカ中っていうか、今回の旅も一緒に来たんだけど、大ゲンカして、あんまり腹が立ったから、またそのうちどっかでねっとか言って、荷物まとめて出てきちゃったんだ」

「なるほど」

「今思えば大人げないけど、そんときは怒ってるし、勢いもあるからね。たまには距離を取った方がいいとも思うしさ」女はこちらを、そうでしょ? と確認するような目線で見た。俺は曖昧に頷いた。

「そう思ってはみてもさ、五年近くずっとこの調子だし、この先どうなるか分んないし、一人でこんなとこいても、なんだかねえ……」女の声には力がなく、言葉の終わりは波間に消え入るようだった。

「つね子さんよ」俺が声をかけると、しかし女は、しっかりと俺の目を見た。「俺はあんたの彼氏も知らんし、あんたとも会ったばかりだ。具体的なことは何も分らんから一般的なことしか言えん。で、俺が思うに、生きてくってのは、あんたが言ったようなことも含めて、有象無象の困難を乗り越えてくってことだ。全く平坦な道なんてハナっからないし、平らじゃあつまらないって言って、わざわざ山登ったり、谷に降りてったりするのが人間だしな。困難にぶつかったとき、どうにも自分の手に余るようなら逃げ出してもいい。けど、ほんとは大した壁でもないのに、ああ、こりゃ、凄い壁だ、自分にはとても越えられないって思い込んで迂回してたら、またすぐ別の壁にぶち当たる。これもダメだとおもって迂回してもまた別の壁だ。俺だって似たようなことばかりやってるから、偉そうなことは言えんが、ほんとにその壁は越えられないのか、落ち着いて、肝を据えてやってみなかったら、人生、誰かが作った迷路を歩いてるだけってことになるんじゃないかね? もちろん、人生しょせん迷路遊びと割り切りゃあ、それもまた悪くなかろうがな」女は目玉をくるくる動かしながら俺の話を聞いていた。そして、少しの間、何かを考えるように空を見上げてから言った。

「たぬ兵衛さんの話はちょっと難しすぎてあたしにはよく分んないけど、でも、気持はなんとなく伝わったかな。とにかく、ありがとね」

 女は右手を差し出した。俺も手を出し、女の手を握った。女はひんやりとした手で、俺の手をしっかりと握り返してきた。

 

 女と別れ小屋に戻ると、ベッドに寝転がってトタンの屋根裏をボンヤリと眺めた。自分が今どこにいるのかを見失ってしまいそうな心細さを感じた。人の話なら、いくらでも偉そうなことは言える。偉そうなことを言ってるのが自分で分ってりゃあ、いくらでも偉そうに言やあいい。だが――、今まで俺はどれだけ壁を越えてきたっていうんだ。いや、越えられなかった壁の数を数えようってわけじゃない。そんな自己憐憫に耽ったって何にも生まれてこないのはよく分ってる。いいさ、とにかく俺は今、自分がどこにいるのかも分らず暗闇の中であがいてる。あがいてる自分をじっくり見つめながら、冷静に、きっちりとあがき続けようじゃないか。

 そう思って、体から力を抜き、ゆっくりと深い息を何度か繰り返すと、さっき握った女の手の冷たさが右手によみがえってきた。いつのことからだろう、俺が人の手をしっかりと握れるようになったのは……。いや、いつのころから、俺は人と握手ができるようになったんだろう……。考えても何も浮かんではこなかったが、とにかく俺はあるときから、他人との間に握手をできる関係を築けるようになったのだ。最初は人から手を差し出されたのだろう。そしてたぶん、自信も持てず、弱々しくその手を握り返したのに違いない。今は俺から手を差し出すこともできるし、そんとき、相手が握り返してくる強さや弱さを味わうこともできる……。

 そんなことを考えているうちに、いつの間にか俺は眠りについていた。

 

 目が覚めると辺りはそろそろ夕闇に包まれようとしていた。俺は煙草を一服してから食堂へと足を向けた。食堂では白人の旅行客たちが、ぼちぼち飯を食い始めている。俺はいつもの海側の席に座ると、サラダ(ヤム)と焼飯(カウパット)、それにビールを頼んだ。

 生ぬるいビールを飲みながら次第に真っ暗になっていく海をボンヤリ見ていると、人の気配を感じて我に返った。女がテーブルの向こうに立って、仕種で座っていいかと尋ねている。俺は黙って頷く。

「これ、タイのビール?」女はビール瓶を手に取って聞いた。「ああ。外国の資本が入ってるらしいがな」

「ふーん、象のラベルが可愛いね」

「飲むか?」

「うん」

 宿の女にグラスを頼んで、ビールを注ぐ。

「ありがと。じゃあ乾杯」

「ああ」

 女はビールをぐっと飲むと言った。

「これでもうちょっと冷えてればねえ」

「まあ、ぜいたくは言えないからな。それに、なれちまえば、これはこれで悪くない」

 飯が運ばれてきて俺は言う。

「よかったらつまみなよ」

「ありがとう。でも、今はあんまり食べる気がしないかな。その代わり、もうちょっとビールが欲しいな、あっ、今度のはあたしのおごりでね」そういって、女はビールを一本追加した。

 俺は女の言葉を遠慮とは取らず、サラダ(ヤム)と焼飯(カウパット)を黙々と食べ続け、あっという間に平らげた。

「いい食べっぷりね」女は少し赤らんだ顔で言った。

「食べるときは一気に食べるのがくせでね」

 俺が食後の煙草をくゆらせる間、女は黙ってビールをチビチビと飲んでいた。そして俺が煙草を吸い終わると、残りのビールをぐいと飲み干して言った。

「ねえ、ちょっと見てほしいものがあるんだけど……」 肩に下げている小さな布のバッグからメモ帳を取り出し、ページを開くと俺に差し出した。受け取って、俺がメモ帳に目を落とすと、女はさらに言った。

「あっ、たぬ兵衛さん、こっちの方はやる人?」そう言いながら、指で何かをくるくる巻いて、それをくわえてふかす仕種をした。

「ああ、やるよ」

「それならいいんだ。もしやらなかったら、読んでもらっても分りずらいだろうから……」

 俺は頷いて、メモを読み始めた。

 

 

 げんじつのせかいには たくさんあるけど

 いまのせかいには なにもない

  (白いきり、もやみたいなやつ)

 

   まあ いいか、ここまでかいとけば

    (これは げんじつのせかいに

     もどったときのため)

 

 ちょっと いまもうさむいから、

 そろそろ げんじつのせかいに

 もどろうか……

  (たぶん ここで げんじつのせかいにもどったとき

   笑うところ)

 

 いまのせかいで たのしむために

 げんじつのせかいで、さむいのに

 とりにきたの (ノートとペン)

 

 これから また いまのせかいに はいるね

 

 いま、いまのせかいにもどってきたところ

 げんじつのせかいで、なんでもやらなきゃ

 いけないんだからやんなっちゃうね――

 いまのせかいはいいよ

 

 げんじつのせかいで、

 まっくらだったから、サンダルウッドのはい、

 こぼしちゃった、でも いいや

 げんじつのせかいで、ひろうのやめとこ

 げんじつのせかいの あしたひろおっと

 げんじつのせかいで おこってることなんだから

 たいてい オーケー、まいぺんらいだよ。

 でもやっぱ、かくのことには ふれなくちゃ

 いけないのかなー

 げんじつのせかいでは、もんだいになってるからね

 こたえは、げんじつのせかいでは、やめとけば

 よかったのにねってことかな?

 

 (また いまのせかいに かえるね、さむいから)

 

 (いまは、いまのせかいじゃなくて、

  げんじつのせかい)

 

 いまのじかんは げんじつのじかんのみらい

 

 たとえば いま(げんじつのせかいが いまのとき)

 Tちゃんが、げんじつのせかいで、

 (いまのせかいではなく)ねてる。

 

 まえにかいた ぶんしょうを げんじつのせかいに

 もどったときのために、せつめいがきを

 かこうと思ったけど、その時かいた いまは、

 もう いまのせかいではないので、

 わかんないから いいや、やめとこ

 (この場合は、げんじつのせかいで さぼったから

  げんじつのせかいにかえったとき

  こまる わかりずらい)

             でもいいの

 

 かりにげんじつのせかいで、

 まちがえても、びょうきになっても

 いまのせかいにもどればだいじょうぶ

 

 げんじつのせかい はやくいまのせかいにおいでよ

 

 げんじつのせかいより いまのせかいの方が

 たのしいよ

 

 だって、いまのせかいは、なんにも ないんだもん

 

 

 一通りメモに目を通し、もう一度気になるところを読み直してから俺は訊いた。

「〈現実の世界〉っていうのが、この、こっち側の世界で、〈今の世界〉ってのが向こう側の世界ってことかな」

 女はこっくりと頷いた。

 俺はもう一本ビールを頼むと、女のグラスと自分のグラスに泡が立ちすぎないようにじっくりと注いだ。そのビールをぐっと飲むと、ぬるさのせいだろうか、いつになく苦い味がのどにひろがった。テーブルの上に目線を泳がせながらビールをチビチビと飲んでいる女の姿は、いつもより更に小さく俺の目に写った。俺はビールを一口飲んで口を湿らせてから言った。

「この、現実の世界で起こってることだから問題ない(まいぺんらい)っていうので思い出したんだが、俺の知ってるやつで、こんな話がある。そいつはまだそんなに経験がないのに強いのをやりすぎちまったんだ。そいつ、それで戻しちまって、これは掃除しなきゃって思ったっていうんだ。で、夢現(ゆめうつつ)のなか掃除しながら、これは現実に起きてることなんだろうか、それとも夢なんだろうか、もし夢だったら掃除なんかしないでいいんだって考えた。そいつは、しかし、いや、これが現実だったらやっぱり掃除しとかなくちゃまずいぞって思って、ふらふらしながら、一所懸命掃除した。翌朝起きてシラフに戻った目で見たら、ちゃんと掃除した跡があったから、ホッとしたって言うんだよ」

 女はくすりと笑った。

「俺たち結局、現実に縛られすぎなんだろうな。――いや、あんたはまた少し違うかもしれんが」

「あたし? さあ、どうでしょうね? 現実に縛られてるねえ……。十分縛られてると思うけど?」

「まあ、そういう意味じゃ、誰だって縛られてるだろうな。ただ、一人一人縛られ具合が違うから、俺から見りゃあ、あんたの縛られてない部分がうらやましく見えるし、逆にあんたから見りゃあ、俺の縛られてなさそうな部分がうらやましいかもしれんな」

「うらやましいなんて一言も言ってないのに、あたしの気持まで勝手に想像しちゃうのね」女はそう言ってケラケラ笑った。「でも、当たってるかな。あたしは、たぬ兵衛さんがそうやって一人で落ち着いていられて、自分の考えをしっかり喋れるのがうらやましいな」

 女はその気持を素直に顔と体に表して俺の顔を見つめた。俺はくすぐったい気分になり、残っていたビールをグラスに注ぐと、更にもう一本注文した。やってきたビールを女のグラスに注ぐと、女は小さくありがとうと言って微笑んだ。俺はビールを飲みながらまたメモをパラパラとめくった。

「意味わかる?」

「ああ、大体な」

 名前をつけがたい、あの、微妙な気持が心の中に湧き上がりつつあった。俺はメモから目を離し、夜の海を見やった。遠くに輝く船の明かりがキラキラ輝いて見えた。雨が上がってイカ釣りでもしているのか、今日は船の数が多かった。女に何か言いたかったが、何を言えばいいのか、言葉が浮かんでこない。みぞおち辺りから力が抜けて、ケツの穴辺りから力が抜けて、俺の頭はからっぽになった。舟の明かりが異様なまでに輝きを増して写った。向こう側の世界には言葉なんてないんだ。その考えが頭に浮かぶと、気持が楽になって、自然と口が開いた。

「最初に、白い霧、靄みたいなのがないって書いてあって、最後に、〈今の世界〉は何もないって書いてあるけど、この最後のは、霧のことじゃなくて、本当に何もないってこと?」

 女はまたこっくりと頷いた。

「俺は今のところ、本当に何もない世界は知らない気がするけど、こっち側の世界だと問題に思えることが向こう側の世界だと全く大したことじゃなく思えたってのはあるな。たとえば、俺のあたまの隅にゃあ、いつも何をやって銭を稼ごうかなんてのが引っかかってたりするんだが、向こう側に行くと、あー、金なんてどうでもよかったんだ、そんなことでくよくよ思い悩む必要なんてなかったんだって、そういうのがスパーンと分っちまったりするからな」

「たぬ兵衛さんでもお金の心配なんかするんだ」女はそう言ってまたケラケラと笑った。

「当たり前だろ。金のことなんか気にしてないって顔してるやつとか、気にしないとか言ってるやつはいくらでもいるが、ほんとに気にしてないやつなんて、そんじょそこらにいるわけがない」

「そりゃそうね。そんじょそこらに、いるわけないよね」

 そんじょそこらにね、と女はその言葉を面白がって繰り返した。

「俺の友達も似たようなことを言ってたな」

 女は話をうながすように俺の顔を見た。

「何にもないって話さ。そいつが言うには薄くなっていくんだそうだ。何もかもが溶けていって薄くなっていく。そして最後には何にもなくなっちまう……」

「ふーん。いろんな感じ方があるもんねぇ――」

 俺は女にメモを返し、煙草に火を点けた。女は空になったグラスをもてあそびながら言った。

「たぬ兵衛さん、ありがとね」

 俺は煙草をくゆらせながら、言葉の続きを待った。

「あたしの彼さ、人の話を聞くようなタイプじゃないし、かといって自分の気持をちゃんと話すわけでもないし、とにかく偏屈でさ。だから、話聞いてもらってメモも読んでもらって、ちょっと助かったな」

「ちょっとかい?」俺はいたずら心で笑いながら訊いた。

「ちょっとじゃなくて、いっぱいね」女も笑いながら答えた。

「ああ、なんだか、お腹すいちゃったな。たぬ兵衛さんもなんか食べる? あたしのおごりでさ。ビールももう少し飲もうよ」

 飯とビールを頼んで、俺たちは他愛ない話で盛り上がった。島の夜をゆっくりと時間が過ぎていった。

 

 その日も宿の食堂で昼間からひとり酒を飲んでいた。朝から晴れて日射しが暑い。生ぬるいメコンソーダがどうにも旨く、俺はすでに十分酔っ払い(キーマオ)だった。

 女が食堂に入ってきて入り口近くの席に荷物を置いた。もとは真っ赤だったのだろう、そのずいぶんとくたびれたバックパックは、割と小さいのだが、彼女の小柄な体と比べると、十分にでかかった。女は俺の席までくると、俺の方を見るでもなく、しばらく黙って立っていた。

「出るのかい?」俺は分りきったことを訊いた。

「うん」女は視線をあちこちにやりながら、ちょっと困ったような顔で体を軽く揺らしていた。そして、思い切った、という感じで口を開いた。

「バンコクに戻ろうと思うんだ。あの、彼と別れたのは北のほうだったんだけど、あいつのことだからね、どうせさ、今頃は一人で、カオサン辺りでくさってると思うんだ。だから、ちょっと、その、仲直りっていうかね」

 そういってはにかみながら笑う彼女の姿は、儚いまでに透き通って見えた。

「そうか。会えるといいな」それだけ素っ気なくいうと俺はメコンソーダをぐっと飲み干し、次の一杯をつくった。

 車が砂利を踏む音をたてながら、食堂の前まで入ってきた。

「じゃあ、あたし行くから」

 女が手を差し出した。俺は酔って心許ない手で、しかし、しっかりと女の手を握った。女は、その冷たい手でしっかりと握り返してきた。

 

 車に乗って女が行ってしまうと、後にはいつもと変わらぬ島のけだるい空気だけが残った。俺はその穏やかで退屈な空気に、八つ当たりにも似た気持を覚え、ふらつき気味に立ち上がると海へ向かった。酔った足に急な下り坂はきつかったが、照りつける日射しの中、一歩一歩ゆっくり浜へと歩いた。

 浜に着くと俺は服を着たままズブズブと海の中へ入っていった。遠浅の海をずいぶん歩いて、肩が水につかるところまで行くと、速い呼吸をしばらく続け体に酸素を送り込んだ。深く息を吸ってから息を止めると水に身を投げ出し全身から力を抜いた。このまま海に溶けてしまいたいと思った。そんな思いも、波が洗い流してくれるだろうと思った。そして俺は考えるのをやめて海と一つになった。

   [二○○三年八月−九月、とうきょう・えどがわ]


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