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  しずかのはま

 

                ながのとしお

 

 

     ――カルロス・カスタネダに

 

   1

 

 人気のない、その小さな浜は、三方を崖に囲まれており、その一方は波に削られ、自然のトンネルとなって、外の世界とつながっていた。人が立つのがやっと、というくらいの、そのトンネルの奥に人影が動いている。やがてトンネルから、まばゆいばかりの陽射しの中に出てきたのは一人の老人で、その明るさに目を細めている。老人は浜を一通り見回してから、ゆっくりと、しかし、しっかりとした足取りで歩き出した。そして、反対側の崖近くの、まだ陽の当たっていない場所まで来ると、履物をぬいで、乾いた砂の上にあぐらをかいた。

 老人は、その顔に刻まれた皺からして、かなりの年のように見えるが、背筋はピンと伸びていた。しばらくの間、老人は海を見つめ、ピクリとも動かなかった。その顔はわずかに笑みを浮かべていたが、そこには幾分の悲しみが混じっているようでもあった。

 青く澄んだ空にはいくつかの雲が浮かび、優しく吹く風は穏やかな入江にさざ波を立てている。崖の上、遠くから聞こえてくる蝉の声も、なでるように寄せては返す波も、その老人を静かに受け入れていた。

 しばらくすると老人は立ち上がり、両の腕をゆっくりと伸ばしたり、あるいは上体を前後左右に、これもまた、極めてゆっくりと、曲げたりと、体操のようなことを始めた。そしてそれが終わると、今度は砂の上に、仰向けに、大の字に横たわった。随分長い間、老人は空を見やり、空を行く雲を眺めるともなく眺めていたが、やがて目蓋を閉じると、そのままじっと動かなくなった。長くゆっくりとした呼吸は、波や風がたてる音に密やかに溶け込んでいった。

 

   2

 

 砂を踏む、静かな足音が近付いてくる。老人は目蓋の裏に影が動くのを感じて目を開けた。髭面の男が老人を見下ろしている。

「こんなとこにじっと寝っ転がってっから、死んでるかと思った」

 男はぶっきらぼうに、けれども、笑いながらそう言うと、老人の横に海の方を向いて腰を下ろした。

「こんな気持ちのいい浜でね、それも、こんな気持ちのいい日に、うん、そう、ポックリといけたらさ、きみ、それ以上の幸せは、なかなかないだろうけど、あいにく、ぼくのお迎えはまだしばらく先――どうも、そんな感じだね」

 老人は体を起こしながら、ゆっくりと、一つ一つ言葉を選ぶように話した。そして、やはり海の方を向いて、あぐらをかいた。老人は両腕を体の正面で、奇妙なやり方で絡ませたが、どこか合掌しているようにも見えた。

 男はそれをチラリと見て、「ヨガかい?」と一言言った。

 老人はしばらく黙っていたが、絡ませていた腕をとくと答えた。

「まあ、ヨガもどき、だな。ぼくは、どうも、一つことをきちんとやるというのが、苦手でね。中国拳法とか、呼吸法とか、あれやこれや、人に教えてもらったり、聞きかじったりしたことを、適当に試してみてだね、それで気に入ったものは、気が向いたとき思い出した時にやってみると。まあ、そんな塩梅だ」

 それだけ言うと、今度は左右を入れかえて、また腕を絡ませた。そして、ふたたび、腕をといて下ろすと言った。

「ふー。どうも、歳のせいか、このところ、なかなか肩の凝りがほぐれなくてね」

「歳? それもあるかもしれんが、要は緊張してるってことだろ。大本の緊張がとれなきゃ、形ばかりヨガをしたってな」

「はっはっは。そりゃその通りだ。きみもよく分かってるな。まあしかし、問題は頭では分かっていても、なかなかこれが、心や体にまではしみていかんことでね」

「まあな」

 それだけ話すと、二人とも口を閉ざして海に見入った。風が、波が、そして微かな潮の匂いが、二人を包み込んでいた。

 

   3

 

「きみはこの土地の人かね?」

 老人は男の方に向き直って聞いた。

「いや、違う。けど、ここには割とよく来るんだ。一月に一度とか……」

 男は海に見入ったまま答えた。その言葉には、さっきまでの歯切れの良さがない。

「ほう?」

 老人は続きを促すように相槌を打った。

 少し間をおいてから、男は話を続けた。

「ちょっと集まりがあってね。その集まりってのが説明しづらいんだが……」

 男はそこでまた間をおいた。老人は黙って男を見ている。男は老人の方に向き直ると、思い切ったように、また話しはじめた。

「要は宗教みたいなもんさ。けど、別に怪しげなところはない。金をふんだくられるわけじゃないし、まあ、ただ集まって、話をしたり、体をうごかしたりするだけさ」

「今度の集まりはいつかね?」

「あさって、満月の晩だ」

「ほう。満月の晩に集まって、みんなで祈りでもあげるのかね?」

「祈りってのは特にないんだ。よく口ずさむ文句なら一つある」

「どんな文句だい?」

「『部分と全体の調和に包まれてあることを、いつも忘れずにいられますように』――」

「部分と、全体の、調和、ねえ」

 老人は顔に笑みを浮かべて、ゆっくりとそう言ったが、その目には少し皮肉なものも光っているようだった。

男は、老人のその顔を見たまま、唐突に言った。

「それが名前なんだ」

「名前?」

「ああ。部分と全体の調和同盟ってんだ」

 

   4

 

「さて、ひと泳ぎするか」

 男は立ち上がると、シャツとズボンをぬぎ、パンツ一枚で海に向かった。

 日は高く昇り、しばらく前から強い陽射しが二人を照りつけていた。老人も立ち上がり、ズボンを膝までまくると波打ち際まで歩いた。波が砂を洗う場所に立つと、心地よい冷たさの波が足の下の砂をさらっていく。老人はこどもの頃から、その感覚、足場の不安定さをともなった、微妙なその感覚が好きだった。幾たびかの波で、足の下の砂が持って行かれて不安定になると、一歩横に移って、また同じ感覚を楽しむ。そうやって、時間がゆっくりと過ぎていくのを味わっているうちに、男はひと泳ぎ終えて、戻ってきた。

「ああ、やっぱり海で泳ぐのは気持ちいいな」

 男は、そう言いながら、砂の上に大の字に横たわった。

「海の中で、体から力抜いてプカプカ浮いてると、まったく別世界って感じだ」

 老人は、足は波に洗わせたままで、体だけ男の方を向くと声をかけた。

「なあ、きみ。ぼくはこの歳になるまで、随分気ままに生きてきたよ。できる限り自由に生きてきたつもりだし、自由に生きることこそが、ぼくの人生の意味だとすら、考えてる。そう、こんな気持ちのいい日に、こうやって気の向くままに時間を過ごすのは本当に幸せなことだよ」

 微笑みながらそこまで言うと、老人の顔に影がさした。

「だがね、どうも、この国では、自由気ままに生きるというのに、少しばかり、むつかしいところがあるようでね。つまり、自由に生きようとするものは、それだけで後ろ指さされることになる――。まあ、きみなら、『人の目を気にしながら、自由に生きるっていったってな』と、軽く一蹴するかもしれんが」

 老人は言葉を切ると、じっと男をみつめた。男は上半身を起こして、砂の上に座ると、老人の方は見ずに答えた。

「自由に生きるってんなら、人の目を気にするのも自由だ」

「それはそうだ。もちろん、ぼくは、いたしかたがなく、人の目を気にしてるわけだが、それをきっぱりやめられないのは、どこかでその習慣を気に入ってるからでもある。まあ、それがぼくの弱さの現れか……」

「弱さは悪いことかい?」

「ふーむ、つまり、ぼくは弱さを悪いことと感じてるってわけだ。いいとか、悪いとか、そういうつまらない分け方は随分捨ててきたつもりなんだが、もちろん、まだまだ残っていると……。いや、こんな愚痴のようなことが言いたかったわけじゃない。自由気ままに生きていると、後ろ指を指されることにもなるが、逆に、同じような生き方をしている、それは決して多くはないんだが、そういう理解者ももちろん現れる。ぼくもそうした親しい友を持たないわけじゃないが、どこかで自分をひとりぼっちだと感じてる。そうすると、きみのように、なんらかの集まりに加わってる人を見たとき、半分疑いの目で見て、半分羨みの目で見て、という具合にもなる」

「そういう意味なら、特に集まりに加わってるってほどのことでもないんだ。ここでは集まりは月に二度やってて、来るのも自由、来ないのも自由。会員とかなんとか、そういうのがあるわけでもないし、およそ組織らしいところがなくてね……。ちょっと陽射しが強いな。向こうの木の影に行こう」

 男はそういうと、立ち上がって砂を払い、服を持って歩き出した。老人も履物をとってから、黙って男の後に続いた。

 

   5

 

 崖に沿って、何本か大きな松が生えている。その木陰に腰を下ろした二人に、崖の上から蝉の声が降り注ぐ。陽射しが遮られるだけで、空気は冷たく二人を包んだ。

 しばらく二人は何も言わず、並んで海を眺めていたが、やがて老人が口を開いた。

「なあ、きみ。さっき、祈りの文句を言っていたな。きみは調和というものを素直に信じるかね?」

「素直に、といわれても困るな。なにしろおれは素直な人間じゃあ、ないから」

 男はそう言って笑った。老人もつられて笑いながら言った。

「はっはっは。じゃあ、素直でないのは、お互い様だな。うん、それでだ、ぼくとしても調和を信じたい気持ちはある。そして、この世界はあるがままで、完全に調和してると、そんな気になるときも、あることはある。だが、この世界の残酷な面を考えてしまうとな……」

「おれたちは天国にいるわけじゃないからな。あの文句を素直に受け止めれば、その残酷さも含めて調和ってことさ。けどよ、残酷にふるまっていいってこととは違うぜ。ただ、すべてが調和のうちにあるって仮定を受け入れれば、そこで何かが変わるってだけさ。それでこの世界の残酷さが減るってわけでもない。まあ、残酷さから目を逸さないですむようにはなってくるか」

「きみが言ってる意味はわかるつもりだ。たぶん、ぼくときみの立場はそんなに大きくは違わないんだろう。違うことと言えば、おそらくきみは今、その調和のうちにあり、ぼくはその外にあるということで……」

 しばしの沈黙ののち、男はすっと立ち上がると、ズボンをはいて、シャツを着た。そして、顔に笑みを浮かべ、座っている老人を見ると言った。

「おれが今、調和のうちにあるかは、正直言って分からん。けど、この集まりに来るようになって、その調和の存在がおぼろに感じられるようになってきた気はする。それでどう、ってこともないけどな。おれはぼちぼち行くよ。いろいろ話して面白かった。あ、それと、もし、集まりに興味があるんなら、場所は村はずれの元中学校だから、いつでも来てくれ」

 男は老人に手を振ると歩き出した。

 老人は何も言わず、男が歩いて行くのを見送った。やがて、男がトンネルの中に消えると、老人は海の方を向いて座り直し、あぐらをかいた。そして小さな声で、部分と全体の調和に包まれていることをいつも忘れずにいられますように、とつぶやいた。風と波と蝉の声が、そのつぶやきをどこへともなく運んで行った。

      [○○・七〜八、とうきょう・えどがわ]


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