メビウス切断 ながのとしお 笑いの中にこそ、自分のあり方を変える  可能性が隠されている。 ―――カルロス・カスタネダ 1 青白い街路灯に照らされ、中途半端に暗い夜の住宅街 を、 しかた 四方 めつ 滅 ろう 郎はやや覚束ない足取りでゆっくりと歩いて いた。家へと向かう道は他に人影もなく、一人歩く滅郎 に梅雨時のじめじめした空気がまとわりついてくる。 滅郎は月曜だというのに少し酒を飲みすぎていた。 彼はどちらかといえば酒が好きな方だが、仕事の付き 合いで飲むことは殆どなかったし、飲むにしてもそうい う席では自然とほどほどということなる。まして週の初 めから足取りが覚束なくなるほど飲むなどということは、 (1) 普段の彼なら考えられないことだった。 前の日に恋人の しょうこ 生子とつまらぬ喧嘩をしたのも理由の 一つだろう。そしてその晩は飲んだ相手もその場の話題 も悪かった。 その日、終業間際になって技術本部長のスズキに声を かけられた。飲みに行こうと誘われたのだ。楽しい話で はないなと思った。もちろん断ることもできた。だが、 生子との喧嘩のことも手伝って、滅郎はその誘いについ 乗ってしまった。 「滅郎、今日はちょっと飲もうじゃないか」スズキの屈 託のない誘いの言葉が、駅からの道を歩く滅郎の頭の中 に木霊した。 予想通り、スズキの話は楽しいものではなかった。お 前もこの会社で十五年もやってきたんだし、そろそろも う少し責任のある地位に就いたらどうだ、せめて課長ぐ らいやってみろよという、今までにも何度か繰り返され てきた話だ。 滅郎には管理職に就く気はない。プロジェクトリーダー をかけもちしている今でさえ管理的な業務の多さにうん ざりしている。ここでそんな役職を引き受けたら、自分 がやりたいプログラムを書くという仕事はさらに遠く手 の届かないところへ行ってしまうだろう。滅郎にとって コンピュータに向かいプログラムを組むことは他の何に も代えがたいものだった。彼は技術者として生涯一プロ グラマーでいたかったのだ。 滅郎の勤める亀戸数理科学研究所は、大学時代にスズ キが別の大学の仲間と起こしたコンピュータソフトの会 社である。スズキと同級だった滅郎も誘われて学生時代 からそこでアルバイトをしていた。大企業に就職する嘘 くささを嫌い、居心地の決して悪くないその会社にその まま勤めて、気がつくともう十五年の歳月が流れていた。 (2) スズキは今でこそ取締役という立場で経営者の視点か らものを見ているが、もともとは理系の人間である。同じ 情報工学科の滅郎をこの会社に誘ったくらいだから、滅 郎の生涯一プログラマーでいたいというナイーブな気持 ちもある程度は理解している。だが、最近になって増え てきた大きめのプロジェクトをスムーズに進めていくた めには、せめて滅郎に課長のポジションを引き受けてほ しい……。滅郎の技術力を買っているからこそのスズキ の願いだった。今までにも何度か切り出しては滅郎に軽 くあしらわれていた話題だったが、十五年という一つの 区切りを持ち出して、その晩スズキはいつになく熱心に 滅郎を口説いたのである。 とはいえ、管理職にはならないという滅郎の気持ちは 確固としたもので、スズキの説得程度で揺らぐようなも のではなかった。そこのところが分らないスズキが、繰 り返ししつこく勧めてくるので、滅郎ははっきり言った のだ。管理職にならないという自分の立場が尊重されな いのなら俺は会社をやめるだろう、と。 そこまで言われるとスズキもそれ以上説得を続けるわ けにはいかなくなり、トーンを落とすとこう言った。 「そうか、分った。お前がそうまで言うんならこの話はな かったことにしてくれ。けど、例のプロジェクトのリー ダーの件、あっちの方はよろしく頼むぜ」 話題が変わっても滅郎の気持ちの重さは変わらなかっ た。 「例のプロジェクト、ね……。はっきり言ってそっちも気 が進まないんだが、この会社でやってくつもりなら、そ のくらいはやらないと仕方ないってことか」 「滅郎、頼むぜ。あの話をきっちりまとめられるのは、う ちの会社じゃお前くらいのもんなんだからさ。この件が うまく行けばボーナスだってドンとはずむし、そのあと はお前にも好きなようにやらせてやるって」 (3) スズキは前にも聞いた覚えのある言葉で滅郎をなだめ ようとした。悪いやつではないと分っているだけに、空 約束で自分を窮屈なところに追いやることになるスズキ の言葉に滅郎はげんなりした。 「スズキ、金の話はともかく、好きなようにやらせるって いうお前の空約束には、ほんとに飽き飽きしてるんだ。お 前の気持ちはともかく、いつもお前は社長のヤグチの言い なりで、結局俺がこきつかわれることになる、違うか?」 滅郎の言葉でスズキはバツの悪い顔になり、それには 答えずジョッキに残ったビールを飲んだ。スズキのその 顔を見て滅郎は、参ったなと思いながら言った。 「まあ、いいさ。お前とも長い付き合いだし、とにかく こっちはこの会社に食わせてもらってるわけだからな。そ の件は前向きに考えておくよ」 「おっ、さすが滅郎、嬉しいことを言ってくれるね。お前が 前向きに考えるって言ったらこれはもう引き受けたも同 然だからな。ホントによろしく頼むぜ。ところでさ……」 何事にも楽観的なスズキは、滅郎がそのプロジェクト を引き受けたものと思い込んですっかりいい気分になり、 話は瞬く間に酒の席でのバカ話へと移っていった。滅郎 の頭にはスズキの話はもはや殆ど入ってこなかった。ス ズキの声を上の空に聞きながら、滅郎は今度のプロジェ クトについてぼんやり考えていた。 そもそも、そのプロジェクトというのが、滅郎にとって はどうも気の進まないものだった。自衛隊からの大がか りな仕事の孫請けで、爆発物のシミュレーションに関す る研究プロジェクトなのだという。滅郎には自分が軍事 関連の仕事をしている姿がうまく想像できなかった。そ んなことにぼんやりと思いを巡らせていると、スズキの 言葉が頭に飛び込んできた。 「ところで滅郎、彼女とは最近どうなの?」 〈彼女〉という言葉が滅郎をその場に呼び戻した。 (4) 「ああ、生子ね……」 滅郎が昨日の生子との喧嘩を思い出しながら曖昧に頷 いていると、スズキは言葉を続けた。 「お前ももう三七だろ。そろそろ身を固めてもいい時期 じゃないのか?」 いかにもスズキの言いそうな通俗的な台詞だと滅郎は 思った。こいつには世間一般並み以外の考え方はできな いのかと、滅郎にはそれが不思議でならなかった。 「どうしてお前はそんなに月並みな考え方しかしないん だろうな? 男と女がくっつくとかくっつかないとか、そ んなのは人それぞれじゃないか。年がどうとか身を固め るとか、俺はそういうのは大嫌いなんだ」 「おい、そんなふうに言わないでくれよ。俺だってお前 の考え方は分ってるさ。別に世間並みをお前に押しつけ ようってわけじゃない。お前のためと思って言ってるん だぜ」 「それはそうかもしれんが、とにかくそういう言い方は やめてくれ。そういう話は誰だって自分で考えて自分で 決める。そうだろう?」 「そうは言ったって、彼女だって色々気持ちがあるんじゃ ないのか?」 色々な気持ち……。そう、確かに彼女にも色々な気持 ちがあるはずだ。そうして滅郎の想いは昨日の生子との やりとりへと流れていった。 滅郎は人生は所詮ゲームにすぎないと思っている。 面白おかしいゲームのことを言っているわけではない。 それは実際なかなか深刻なゲームだ。なにしろ人の命が 賭かっている。自分の人生を賭けてするゲームなのだ。 だが、ゲームである以上、真剣になりすぎるのはうま くない。つまらないところで熱くなりすぎれば、ゲーム を落とすことにもつながる。ほどほどの真面目さで参加 (5) し、ほどほどの楽しみを得る。力を抜けるところでは力 を抜いてリラックスし、ここぞというところでは全力投 球する。 世間一般で言うような勝ち負けのゲームだと思ってい るわけでもない。自分なりに納得のいくフォームで、自 分として満足できるプレイをすればいい。そのために重 要なのは対象との距離とバランスだ。対象との距離が遠 すぎれば十分なプレイができないし、誤って近くなりす ぎればバランスを失うことにもなる。自分のバランス感 覚がどの程度のものなのか、それは滅郎にも分らなかっ たが、とりあえずこれまでのところはそれなりのプレイ をしてまずまずのスコアをあげてきた。そんなふうに滅 郎は自分の人生を捉えていた。 しかし、このゲームという言葉の意味を説明するのは なかなか難しい。誤解されて否定的に取られることもあ る。特に女はこの話を嫌うようだった。だから滅郎がこ の話を人にすることは滅多になかった。 ところが昨日の晩、生子と飯を食っている席で滅郎は そのことをうっかり口にしてしまったのだ。 その晩いつもの店で夕飯を食っていると、生子は友だ ちの直子がマルチ商法をやっていてしつこく勧めてくる ので困っている、あいつもばかなんだから、と愚痴ともつ かぬ様子で話してきた。生子はカラッとした性格で、愚痴 を言ったり人の悪口を言ったりすることはまずない。自分 でなんでも決めていくほうだから、十年ほどのつきあい の中で相談のようなものを受けた記憶も滅郎にはなかっ た。そんな生子が、マルチ商法のことで困っている、自分 としてはそんなものをやる気はないし、けれども長い付 き合いのある直子が、何度断っても繰り返し勧めてくる ので、どうしたらいいかわからなくて、と言うのだった。 滅郎はそう聞いて答えを求められているのだと思った。 (6) しかし、今考えてみるとそうではなかったのかもしれな い。生子の中では彼女なりの答えがあって、ただその答 えが彼女なりに正しいということを、滅郎に話すことで 確認したかっただけだったという気もする。ともあれ、そ のとき滅郎は自分なりの考えを生子に説明した。 マルチ商法なんてものは簡単に儲かるものじゃないし、 無理な勧誘で人間関係を壊すような話もよく聞く。一応 合法的ではあるにしても半分詐欺みたいなもんだ、とい う滅郎の話を、そこのところまでは生子も納得顔で聞い ていた。ところがその先で、そもそもマルチ商法のよう なバカげたものがこの世に存在すること自体を不愉快に 思っている滅郎は、酔いも手伝い、つい調子に乗って言っ たしまったのだ。 「俺は人生なんて結局ゲームにすぎないと思うんだよ。自 分は自分、他人は他人のルールでやってるわけでね。だ からそれぞれのルールでやってるんだってことを、つま り自分は自分のルールでやらせてくれってことをさ、そ こんところをちゃんと伝えれば、そんなに悩むこともな いと思うけどなあ」 滅郎が言葉を切って生子のほうに改めて視線をやると、 そこには目を見開き、冷たい視線で滅郎を凝視する彼女 の顔があった。しまった、と滅郎は思った。だがもう遅 かった。生子がいきなりの剣幕で言葉を投げつけてきた。 「いつ誰が悩んでるなんていったのよ。勝手に決めつけ ないでくんない? それにしても、あんたは幸せねえ、そ うやって四六時中ゲームの世界を生きてりゃいいんだか らさ。けどね、あたしや直子はそんなんで生きてるわけ じゃあないんだよねー。あんたのその言い草じゃ、なに? あたしと付き合うのも、げーむにすぎないと、そーゆー わけ? まったくご立派な考えじゃない? あーもー、こ れ以上あんたのバカな話には付き合ってらんない、あた し帰るわっ」 (7) 彼女の強烈な怒りに驚き固まってしまっている滅郎に、 一言も口を挟む機会を与えずにそれだけ言うと、生子は 席を立った。ネパール製だという色鮮やかなリュックを つかんで、五千円札を一枚取り出すとテーブルの上にぱ しんと置く。そして滅郎には見向きもせず颯爽と店を出 て行った。 今までにも似たようなことは何度かあったが、今回の 彼女の爆発は超弩級であった。呆然と見送るしかなかっ た滅郎は、周りの視線を気にしながら、グラスに残った ビールをごくりと飲んで喉を湿らせた。 滅郎はスズキの話が切れるのを待って前日の生子とのや りとりを簡単に説明した。それを聞くとスズキは言った。 「まったくお前は相変わらずだなあ……。酒が入って調 子に乗ってると、相手が出してるはずのサインも目に入 らずに、神経逆撫でするようなことでも平気で言っちま うんだから……」 「いやこれでも前よりはいくらか良くなってるはずなん だけどな。まあ、酒の入り具合もあるし、こっちにとっ て愉快じゃない話題だと、つい度を過ごすってことかな」 「で、お前はちっとも悪く思ってない?」 「そんなことはないさ。俺だってそれなりに自分の悪さは 感じてる。ただ、お互いの考え方とか行動のパターンが噛 み合わないときにそういうことが起こるわけだし、こっ ちがそのパターンをパッと変えられれば一番いいだろう けど、そんなこと、簡単にできるわけもないし、そした ら、悪いとは思っても、仕方のないものは仕方ないって、 どうしても思っちまうんだよな」 「で、その辺のお前の、開き直るような態度が彼女の気 にくわないんだろう?」 「まあ、それはそうなんだけどさ……」 スズキの言葉に頷きはしても、どうも自分のほうだけ (8) が一方的に要求されているような気がして、滅郎には納 得がいかない部分が残る。この手の諍いがあるたびに滅 郎は考えてしまう。そもそも彼女なんて存在は俺にとっ て必要なものなのか。ひとりぼっちの気楽さと寂しさの ほうが俺には合ってるんじゃないのかと。 今日のスズキの課長昇進の話もそうだが、滅郎として は自分一人で自由にやりたいのに、気兼ねなくそうでき る領域が少しずつ減ってきている。そんな感覚に、このと ころの滅郎は襲われていた。三七という年齢に対しての 社会からの要請、そしてそこからくる鈍く重い圧迫――― 滅郎は徐々に迫ってくる不自由な息苦しさをそんなふう に意識した。スズキはまだ何かを話し続けていたが、滅 郎は上の空で相づちを打つばかりで、話はもう耳に入っ てこなかった。 自宅への道を歩く滅郎の頭には、そうしたスズキや生 子の、顔や言葉が脈絡もなく浮かんでは消えしていた。 滅郎はいやいやをするかのように頭を右へ左へと何度か 振って頭を空っぽにしようとした。口から長く息を吐き 出し、鼻からゆっくり息を吸うと、鼻腔に湿った重苦し い空気を感じた。梅雨時なのに風が吹くと肌寒いほどの、 妙な陽気の晩だった。 自宅のある鉄筋アパートが近づいてくる。玄関前の植 え込みにサルスベリの白い花が咲きはじめているのが夜 目にもくっきり見えてきた。その木の脇に足を止め細やか な花の様子を見ながら、滅郎はぼんやり思った。母さんの 好きなサルスベリ、母さんは元気にしてるだろうか……。 滅郎は酔っぱらった足でゆっくりと、四階までいつも のように階段を昇った。自分の部屋の、冴えない焦げ茶 に塗られた鉄扉の前に立ち、鍵を差し込み回す。扉を開 いて後ろ手に閉め、暗闇の中、明かりのスイッチに手を 伸ばした瞬間―――。 (9) 大きめの一LDKの、滅郎の部屋の奥にスポットライ トが当たった。 男が三人、奇妙な衣装でアコースティックギターを構 え立っている。そしてスパニッシュというのだろうか、三 人はてんでんばらばらにギターをかき鳴らすと、真ん中 の小男が調子っ外れの大きなだみ声で歌いだした。 「メラーーーーーー」 両脇の男二人がそこに合わないコーラスを重ねる。 「たーーで」 また小男がだみ声を張り上げる。 「メラーー」 そして、また不揃いなコーラスが部屋に響き渡る。 「たーーで」「ターーデ」 滅郎の頭の中は真っ白になっていた。 そのがらんどうとなった頭の中を、音楽とはとても呼 べないギターの騒音と、雄叫びのような歌声が駆け巡り、 溢れかえる。その理解を拒絶する光景を眺めているうち に、まず彼らの着ている黒いポンチョが滅郎の意識に入 り込んできた。黒地に白の地味な色合いだが、入り組んだ 細かい刺繍が目を引く。そして次に三人のかぶっている山 が高くつばが広い帽子が滅郎の意識に焦点を結んだ。あ れは確かメキシコの……、なんという帽子だったか……。 滅郎は考えるともなく考えていた。 「わぁれらはっ」 「メラーッ」「ターーデー」 一際高いコーラスが入り、ギターが激しく掻き鳴らさ れて演奏が終わった。すると、真ん中の小男が声も高ら かに滅郎に呼びかけた。 「ようこそ、滅郎クン! われわれの演奏はお楽しみい ただけたかな?」 「ようこそ……?」滅郎は力なくそう呟くのが精一杯だ った。 (10) 「きみの部屋に勝手にお邪魔しておいて、ようこそ、も ないもんだね、ハハハハハッ」 男はさもおかしい冗談を言ったとでも言うように体全 体で笑った。右に立つ黒メガネの男はニコリともせずじっ と立っている。そして左側の中肉中背の男は顔に不思議 な笑みをたたえて頷いていた。 そこが自分の部屋であることが意識からすっぽり抜け 落ちていた滅郎は、小男の言葉で我に返り、部屋の中を 見回した。妙な男たちがいること、その後ろに黒いスク リーンが吊されていること、そして彼らを照らすスポッ トライトがあることを除けば、確かにここは自分の部屋 のようだ。しかし、この異常な状況の中、テレビドラマ の撮影現場にでも紛れ込んだかのような非現実感を滅郎 は感じていた。 「滅郎クン」男が再び馴れ馴れしく呼びかけた。「きみが 驚くのも無理はない。だが、これがわれわれの流儀でね。 すなわち、予告なく夢のように現れ、任務が終了すれば 風のように去る。それがわれわれメラターデ教団のやり 方なのだ」 「めら、たーで……?」滅郎は再び力なく呟いた。 「そう、メラターデ教団だ」小男は右側の黒メガネの男 にあごをしゃくって「ニゴウ」と鋭く言った。 ニゴウと呼ばれた男は、ストラップで吊し前に構えて いたギターを背負う形に器用に持ち替えると、音もなく 歩いて滅郎の前まできた。滅郎は呆然としたまま動くこ ともできず、男の黒メガネに写る小さく歪んだ自分の姿 を見ていた。ニゴウは少し間を置いてから、すばやく右 の握り拳を滅郎の顔寸前まで差し出した。滅郎は驚いて よろけ、後ずさった。肩が鉄の扉に当たり、がつん、と いう音が静まりかえった部屋に響き渡った。 ニゴウはもう一歩滅郎に近づくと、再び拳を滅郎の顔 の前に差し出した。滅郎は恐怖を感じたが、それを気取 (11) られないように、静かに大きく息をして冷静を保った。男 の拳が裏返りながらゆっくりと開き、人差し指と中指に 挟まれて一枚のカードが滅郎の目の前に現れた。 滅郎は近すぎて焦点の合わないカードに少しのあいだ 目をやってから、男の顔に視線を戻した。黒メガネが闇 の色をして男の目を隠している。だが、その無表情な顔 に男の酷薄さがはっきりと表れていた。 「取りな」男が言った。 滅郎がゆっくり右手を挙げてカードを取ると、男は再 び音も立てずに歩いて元の位置に戻った。滅郎は男が戻っ ていくのを目の端で捉えながら、そのカードに目を落と した。そこには次のように書かれていた。 メラターデ教団 団長 カードの左下には、赤い色で穂のようなものが書かれ ているが、連絡先も書かれていなければ名前も書かれて いない。 「滅郎クン、ニゴウが驚かせてすまんな。私のところへ 来てからというもの、この男もこれで随分丸くなってき たものなんだが、まだまだこのようにがさつなところが あってね」団長はそう言って肩をすくめた。 滅郎は相変わらずこの奇妙な状況に圧倒されたままで はあったが、少しずつ気持ちが落ち着いてきて、ようや (12) く頭が回転し始めた。このまま相手のペースで行くわけ にはいかない、そう思って滅郎は言った。 「おいちょっと、なんなんだ、きみたちは。こんな夜に 人の部屋に勝手に入り込んで。一体どういうつもりなん だ。さっさと出てってくれ。でないと警察を呼ぶぞ」口 調は自然と強いものになった。 「団長、シメちまいましょうか」一歩足を踏み出して、黒 メガネの男が言った。 「ニゴウ、お前は本当に気が短い。しばらくおとなしく してろ」 団長がニゴウを見据えて鋭くそう言うと、男は何も言 わず静かに一歩後ろに下がった。 「滅郎クン」団長は滅郎に顔を向け直すと言った。「われ われの方ではきみのことを少しばかり調べさせてもらっ ている。例えばきみが大の警察嫌いだということとかね。 こういう場合であっても、きみが警察を呼ぶことはない と、われわれは確信している。違うかね? そういうわ けで、きみの脅し文句のようなものはわれわれには効か んわけだ。ここはひとつ、落ち着いて話し合おうじゃな いか」 「落ち着いてだと?」滅郎の怒りは膨らんだ。「どうして こんな状況で落ち着いて話し合えるのか、さっぱり分ら んな。きみらはそうやって遊んでればいいのか知らんが、 こっちは明日も会社勤めの身だ。さあ、とっとと帰って くれ」 滅郎は声を荒げながらも冷静さを保つ努力をし、相手 の動きを見守った。だが三人の男は身じろぎもせず、滅 郎の様子をじっと窺っているようだった。部屋は少しの 間、静寂に包まれた。 すると団長が小さな体を大きく左右に振りながら言っ た。 「滅郎クン、そうカッカしては体に毒というものだ。ちょっ (13) とお茶でも飲んだらどうかね」 団長がそう言うと、今度は左側の中肉中背の男が動い た。男はまずギターを丁寧に床に置き、滅郎の方に歩き 始めた。この男の動きには洗練された柔らかさがあり、 黒メガネのニゴウのなめらかだが粗暴な行動とは対照的 だった。男は滅郎の前に立つと、どこから取り出したの かペットボトルのウーロン茶を滅郎に向かって両手で恭 しく差し出した。 「気持ちはありがたい、ということにしておくが、見知ら ぬ人から貰ったものを飲み食いするんじゃないって、お 袋からきつく言われてるもんでね」 「ほほう、滅郎クン、お母様のお言葉をそのように大切 にしているとは素晴らしい。立派な孝行息子じゃないか。 親孝行こそは人類の美徳の最たるものだよ。サンゴウ」 その声を聞くと男はウーロン茶を差し出していた手を 戻し、優雅な足取りで元の位置へと戻った。 「ではここで」団長が咳払いをして言った。「メラターデ 教団、十の教え、第一を。一つ、お父さん、お母さんを 大切にしよう」 「お父さん、お母さんを大切にしよう」ニゴウとサンゴ ウが完璧なまでのタイミングで唱和した。 団長はその顔に溢れんばかりの笑みをたたえながら、滅 郎をじっと見ていた。さっきの歌のめちゃくちゃさ加減、 今の唱和の正確さ、そして唱和の内容のまったくの無意 味さ……、これらのことが団長の笑みと相まって、滅郎 に底知れぬ不気味さを感じさせた。 「さて、滅郎クン」団長がそう言うと、滅郎は相手のペー スに乗るまいと、すかさず言い返した。 「俺の名前を気安く呼ぶのはよしてくれ」 「なるほど、それももっともだ、日本では下の名前で呼 び合うことは普通しないからねえ」団長は大げさに頷き ながら言った。「では、四方クン」 (14) 「それもやめろ。あんたに〈くん〉付けで呼ばれる筋合 いはない」 「なるほどなるほど、素晴らしい自尊心だ。われわれ の調査したとおり気骨がある。それでこそ、こちらとし ても話し合いのし甲斐があるというものだ。では改めま して……」 団長は、それまで背筋を伸ばしふんぞり返り気味の姿 勢で偉そうに構えていたのだが、軽く背を丸めて頭と腰 を低くすると両手をこすり合わせながら言葉を続けた。 「四方さん、われわれとしましては、あなたのその素晴 らしい才能を見込んで、是非とものお願いがあるわけで してね」 団長の、卑屈といってもいいほどの低姿勢への急激な 変化に滅郎はたじろぎ、言葉を失った。落ち着け、相手の 出方に振り回されるな、こっちのペースを保つんだ……。 この調子ではこいつら、どうやら簡単には引き下がりそ うにない、とすれば……。このままでは埒が開かないと 思い滅郎は口を開いた。 「で、いったい何なんだ、そのお願いっていうのは?」 「四方さん、そうトゲトゲなさらないでほしいものです なあ。確かに先程のうちのニゴウの行動は無礼だったと 思います。本当に申し訳ない。けれど、そのように喧嘩腰 の態度ではまとまる話もまとまらないじゃあないですか」 「おい、あんた、こっちがおとなしく出てれば、ずいぶ ん立派な口をきくじゃないか。いくら柔らかいもっとも らしい口調で言ったからって、あんたらのやってるのは ただの不法侵入だ。こっちはそれを分った上で一応は話 を聞いてやろうって言ってるんだ。さっさと用件を言っ てくれ。で、用が済んだらとっとと帰るんだ」 「はっはっはっ、四方さん、あなたもなかなか手厳しい。 ですが、四方さん、よく考えてくださいよ。あなただっ てバカじゃあない。自分の置かれた立場がどのようなも (15) のか、そこを考えてみれば……」男は言葉を切ると柔ら かい笑顔を浮かべて滅郎の顔をじっと見た。「あなたの立 場はおっしゃるほどには優位なものではない、そのくら いのことはあなただって先刻お分りのことでしょう」 そして、男は目をぎらりと輝かせると、腹の底まで響 いてくる低く力強い声で言った。 「そういうわけですから、わたしのことを、あんた、と 呼ぶのはやめていただきたいのです。わたしのことはど うぞ、団長、と」 団長のその声色を聞くと、鳩尾の辺りに重い感覚が拡 がり、滅郎は軽い吐き気を覚えた。滅郎はその圧迫感を 押し返そうとなんとか口を開いたが、低い呻き声で言う のが精一杯だった。 「団長……」 「そうですそうです、それでいいのです」団長は嬉々とし て言った。「それでこそ、われわれは対等の立場で、パー トナーとなるべく、お話ができるというものです。おっ と、そう言ってしまったからにはもうお願いを申し上げ てしまったも同然ですが、いや何、われわれのお願い自 体はごく単純なものでして。ただし、それをいざ実行す るとなると、四方さんとしては、いささか大変なことに なるかもしれませんがね」 団長は両の目をくるくるさせながら、さも楽しそうに そう言うと滅郎の顔を見た。面白いいたずらを考えてわ くわくしている子どもの顔だ。滅郎は不気味さを感じな がらそう思った。 「さあ、もうこれ以上余計にお話を引き延ばす必要もな くなりました。われわれの紳士的な態度を四方さんにも 十分ご理解いただき、四方さんも紳士的な態度でわれわ れの提案を聞いていただけるわけですからね。いえいえ、 本当に単純なことなんですよ。つまり、四方さんには是 非われわれメラターデ教団の一員になってほしいと、たっ (16) たそれだけのことなんですから」団長はようやく本題に 入れたことが嬉しくて溜まらないというように満面の笑 みを浮かべてそう言った。 相手の言葉の真意をつかみかね、しかし、さっきの団長 の低い声色を思い出しながら、滅郎は言葉を選んで言った。 「きみらの一員になれ、だと?」 「そのとおりです」団長はにこやかに、いっそう満足気 にそう言うだけで、それ以上のことを説明をするつもり はないようだった。 滅郎が男の言葉の意味に思いを巡らし、どう言葉をつ なぐべきかと考えていると、団長が先に口を開いた。 「さて、四方さん」静かな部屋の中、団長の声が響いた。 「今日のところはこれで用件は済みました。わたしどもの お願い、どうかよく考えておいてください。よいお返事 をお待ちしておりますよ。では、われわれはこれで」 団長のその言葉を合図に、呆然としている滅郎の前で、 ニゴウとサンゴウは手際よく荷物を片付けた。団長が滅 郎に近づいてくる。 「さあ」そういって団長は、玄関に立ちっぱなしの滅郎 に靴を脱ぐようにうながした。 滅郎が催眠術にかかったかのような夢見心地のなか靴 を脱ぐと、団長は滅郎をキッチンに誘導した。 「では四方さん、しばしの別れを!」団長はそれだけ言う と、二人の男を従えてまさしく風のように去っていった。 キッチンに一人取り残された滅郎は、しばらくすると 流しの下から泡盛の四合瓶を取り出してきて、湯呑みに 注いだ。一口飲んでからベランダに出て、夜の住宅街を 見下ろす。彼らの姿を探すかのように視線を彷徨わせた が、その痕跡はどこにも見当たらない。生ぬるい空気の 中、いつもの平穏無事な街が拡がっているだけだった。 何も考えることができずベランダの右端で立ちつくし (17) ていた滅郎の耳に、エアコンの室外機の音が聞こえてき た。ベランダの左隅に置いてある、自分の部屋のエアコ ンの室外機の音だった。部屋に入ったときは確かにエア コンはついていなかった。いつの間にか彼らが勝手につ けていたのだ。 その些細なことが滅郎の怒りに火を点けかけたが、滅 郎は右の拳で自分の腿をどんと叩くと深呼吸して心を静 めた。湯呑みの泡盛を飲み干すと、滅郎はキッチンに戻っ た。まだ、緊張は治まらなかったが、もう一杯泡盛を注 いで時間をかけて飲むと、ようやく眠れそうな気がして きた。 服を脱いでベッドに潜り込み、しばらく頭を空白にし ていると、深い闇のような眠りがやってきた。 翌朝目が覚めると、滅郎は強い喉の渇きを覚えた。キッ チンに行き、冷蔵庫から野菜ジュースの一リットルパッ クを取り出す。流しに置きっぱなしにしていた湯呑みを すすぎ、ジュースを注いだ。それを一気に飲み干し、も う一杯注ぐ。キッチンの小さな一人用のテーブルに座る と、昨晩のことが頭に蘇った。 スポットライトに浮かぶ、奇妙な三人組。そして、イカ レた歌と演奏。常識的な理解を拒む、彼らの行動と言葉。 その全てが非現実的に感じられ、それが昨晩この部屋 で現実に起こったのだということを、滅郎の頭は受け入 れることができなかった。夢、だったのではないだろう か。あんなことが実際に起こるわけがない。昨日、一昨 日と強いストレスを感じる出来事が重なったことと、酒 を飲み過ぎたことから奇妙な悪い夢を見た、そういうこ とではないのか……。 だが、一方で滅郎の体はそれが現実に起こったことで あると主張していた。ニゴウと呼ばれていた男の酷薄さ、 サンゴウと呼ばれた男の不思議な物柔らかさ、そして、団 (18) 長の不遜だが礼儀正しく、その上奇妙な恐ろしさを感じ させる芝居じみた態度……、こうした全てがあまりにも リアルに思い出される。そしてそのとき、団長の「わた しのことはどうぞ、団長、と」と言う低い声が頭の中に 響き渡って、滅郎は吐き気を感じた。滅郎は流しに立つ と、喉に人差し指を突っ込んだ。 「うっ」低い呻きを上げて滅郎は吐いた。 吐き終わって、口をゆすぎ、昨日の未消化の内容物を 水で流してしまうと、少し気分がすっきりした。 テーブルに戻ってまたジュースを飲んだ。昨日のこと が夢だったのか現実だったのか、それは今は置いておこ う。とにかく今日は会社を休むわけにはいかない。重要 な打ち合わせがある。二日酔いと昨日の記憶のため言う ことを聞こうとしない体をなんとかなだめながら、滅郎 は会社に行く支度をした。 会社にいる間、滅郎は前の夜のことはほとんど思い出 すことなく過ごした。朝一から取引先との打ち合わせが あり、午前中はそれで潰れた。午後は、相手の要求をこ なすための工程を見積もり、チームの人間への仕事の割 り振りを計画した。昼まで二日酔いが残り体力的にはき つかったが、仕事に打ち込んでしまえば、ほかのことを 考えている余裕はなかった。 勤務時間も終わりに近づき、ようやく仕事に区切りが ついた。頭と体の疲れをとろうと深い呼吸を意識的にし ながら頭を空白にしていると、昨晩のことがもやもやと 頭に浮かんできた。俺の才能を見込んで……、何かそん なことを言ってたな……。滅郎はそう考えかけたが、い や、今はそのことを考えるのはやめよう、と思い直した。 そして、長く息を吸っては吐きして気持ちを静めている ところへ、電話が取り次がれてきた。 「四方さん、 おどりの 踊野様よりお電話です」 (19) 生子からの電話と聞いて滅郎はとにかく彼女の声が聞 きたいと思った。だが、一昨日の諍いのことを考えると、 彼女が一体何を言うのか、不安な気持ちも湧いてくる。一 瞬電話に出たくないと思ったが、この状況で出ないわけに もいかない。期待と不安が交錯するなか受話器を取った。 「仕事中ごめんねえ。てゆうか、今どき滅郎がケータイも 持ってないのが悪いんだと思うけどさあ」生子の屈託な い声を聞いて、滅郎は安堵の気持ちが拡がるのを感じた。 「ああ、まあそれは俺の趣味だから勘弁してもらうとし て、何か用?」自分の心の揺れを気取られないようにと 思って言葉を発すると、自然とつっけんどんな言い方に なった。 「何か用とは、言ってくれるじゃない。おとといのこと で、ちょっとは謝ろうかと思って電話してるってゆうの にさあ」 「悪い、悪い。ちょっと仕事が立て込んでるもんでね。い や、おとといのことはこっちこそ悪かったよ、ひどい言 い方しちまって」 「ああ、それはね、もういいのよ。とりあえず今日は飲 み直しってことでどう? 時間ある?」 「仕事は切りがついたし、こっちは大丈夫。いつもの場 所で六時半、それでいいかな?」 「おっけー」 「じゃあ」 電話を切った滅郎は、肩すかしを食らった気分だった。 一昨日の彼女の剣幕から一体どんな電話なのかと身構え ていたのに、ふたを開けてみれば、あまりにも上機嫌な 今の彼女の様子に、ほっとはしたものの複雑な想いが湧 いた。今までにも似たようなことは何度かあった。彼女は 過ぎ去ったことについては本当にさばさばしている。そ れと比べたときの、自分のこだわりがちな気持ちや、過 剰な心配。滅郎は自分の弱点を感じると同時に、そうし (20) た自分とは対照的な生子と一緒にいられることの小さな 幸せを噛みしめた。 生子と駅で落ち合うと、滅郎は挨拶以上の言葉は交わ さず、黙ったままいつもの飲み屋へ向かった。席に案内 され、滅郎が瓶ビールと腹に溜まるつまみを頼むと、二 人は何も言わずしばらくお互いを見つめた。生子はおだ やかな顔をしていたが、滅郎は自分の緊張を感じ、煙草 に火をつけ注文の品が来るまでの時間をやり過ごした。 ビールが来るとまず生子のグラスに注ぎ、それから自 分のグラスに注いで滅郎は言った。 「じゃあ、とりあえず、お疲れ様」 生子はグラスを取ってカチンと滅郎のグラスに合わせ たが何も言わず、ビールを半分ほど飲むとグラスを置い た。滅郎はとにかく口を開いた。 「いや、おとといは本当にすまなかった」 それを聞くと生子は笑いながら言った。 「ホントーにすまないと思ってるの? 滅郎のホントー はちっとも当てにならないからなあ……。でも、そのこ とはもういいの。それがね……」 そう言って生子が話すには、昨日直子と会って、マルチ 商法について滅郎がこう言っていたと話したところ、直 子は、そうか、やっぱりちょっと無理なことやっちゃって たんだな、と答え、迷惑かけてごめん、と生子に謝った のだという。 滅郎はそう聞いて一安心し、ろくに口をつけていなかっ たビールを一息で飲み干すと、再び瓶から注いだ。生子 は直子の話を続けていたが、滅郎はやや上の空で、ぼん やりと昨晩のことを思い出していた。こうやって生子と 一緒に飲んでいると、なおさら昨日のことが夢の一場面 だったような気がしてくる。あれはやはり夢だったので はないのか。会社での立場上の問題に、生子との諍い、そ (21) して週初めから酒を飲み過ぎたことも手伝って、普段で はありえない妙ちきりんな夢を見た―――そういうことな のかもしれない……。 「滅郎、もう一本飲む?」生子が自分の空のグラスを手 にして言っていた。気がつくと滅郎のグラスも空だった。 「そうだな、もう一本いこう」 ビールがきて、また滅郎が二人分のグラスに注ぐと、生 子は言った。 「どうかしたの? なんか考え込んでるみたいで?」 滅郎は生子の顔をぼんやり眺めながら、どう話したも のかと考えた。生子は不思議そうな顔をして滅郎の顔を じっと見ている。 「どう言ったらいいのか、ちょっと悩んじゃうんだけど ね……」滅郎はとりあえずそう言った。 「おとといのことが引っかかってるの?」生子はやや心 配そうな顔になって言った。 「ああ、いや、そのことじゃない。生子とのことじゃあ ないんだ。その、ぼく自身の問題というかね……」 「滅郎自身の……?」滅郎のはっきりしない物言いに、生 子はますます不思議そうな顔をして言った。 「ええと、いや、ちょっと待って、ぼく自身といってい いのか、つまりそう言えばそうかもしれないんだけど、 ひょっとしたらそうじゃなくて、ぼくに関心を持ってい る誰かの問題という気もするし、その、今はちょっと、説 明が難しいっていうかね……」 「それってどういうこと?」眉間にしわを寄せながら生 子は言った。「何言ってんだかよく分んないんだけど。女 でも絡んでるわけ?」 「いや、それは違う、全然そういう話じゃないんだ。それ は絶対保証する。その手の面倒な話だったら、ちゃんと きみに相談するさ。そんなふうな話とは全く違うんだけ ど、ちょっと今は話しにくい感じなんだよ。その、もう少 (22) し話が落ち着いたら、きちんと話すからさ。今はちょっ と勘弁してくれないかな」 「ふーん」生子はそう相づちを打つと、十分納得したふ うではなかったが、それ以上そのことについて訊くこと はしなかった。 滅郎の中には生子に全てを話してしまいたいという気 持ちも確かにあった。しかし、あのような奇妙な体験を どう説明したらいいのか。生子がそれを現実のことと受 け止めるにせよ、滅郎の精神的な問題と受け止めるにせ よ、どちらにしても生子にはどうすることもできないだ ろう。そんなことで余計な心配をかけては、と滅郎は思っ た。これはまだ自分の心の中にしまっておいて、時間が 何かを変えてくれるのを待ったほうがいいのだ、そう滅 郎は考えた。 「じゃあ、滅郎、無理しないでほどほどにね」駅まで送 ると生子は手を振りながら言った。 ほどほどか、何をどうほどほどにしたらいいんだろう、 そう思いながら滅郎は手を振り返した。 「ああ、じゃあ、また金曜に」 そうして生子と別れて家へと帰る道すがら、滅郎の頭 には昨日の三人組の映像が渦巻き始めていた。 不可思議な衣装を身につけた彼らがスポットライトに 浮かび上がり、めちゃくちゃな演奏をしながらおかしな 歌を歌う。そして彼らとの奇妙なやりとり、団長の重く 響く声色……。滅郎は体に変調を感じた。腹から力が抜 け、腰に緊張が生まれる、そして鼓動が速くなる。体の 緊張を和らげようと深呼吸をしながら滅郎は考えた。 昨日のことが現実のことだとすれば、彼らは一体何も ので、何の目的で自分に近づいてきたのか。俺の才能の ことを言い、俺のことを調べていると匂わせていたが、果 たしてどれだけの調査をしているというのか……。ある (23) いは、あれが疲れすぎて見た幻、強い緊張のために見た 異様にはっきりした夢だったとすれば、そのとき俺はど うしたらいいのか。滅郎は医者の世話になりたいなどと はさらさら思わなかったが、場合によっては心療内科に でも行ったほうがいいのだろうか……。 自宅のある鉄筋アパートが見えてきたところで滅郎は 立ち止まり、四階の自分の部屋を見上げた。両隣の部屋 は明かりが点いていたが、自室の窓は暗く、特に変わっ た様子はない。滅郎は再び歩き出し、エントランスを抜 けて階段を四階まで昇る。いつもと違い、妙に階段が長 く感じられる。部屋の前に立って、鍵を差し込む。 鍵が回らない。 滅郎の手は緊張で震えた。 一度抜いてもう一度しっかり差して回そうとするがや はり回らない。 はっと思って表札を見ると、五○三、山本、と見知らぬ 名が記されていた。緊張の余り間違って五階まで上がっ てしまっていたのだ。自分の間抜けさにあきれて苦笑い しながら滅郎は四階に降りた。今度こそ自分の部屋の鍵 を開ける。扉を開けて、今日は後ろ手に扉を開け放しに したまま部屋の電気を点けた。部屋には人の気配は感じ られなかった。 滅郎はそれだけでは安心することができず、部屋中の 電気を点けて回り、トイレ、浴室、クローゼットに至る まで中を確かめた。そうやって部屋の中を全部確認し終 わると、ようやく少し気持ちが落ち着いた。 流しの下から泡盛を取り出し湯呑みに注ぐと、キッチ ンのテーブルに座ってそれをちびちびと嘗めた。飲みな がら昨日の晩のことを思い出し考えようとしたが、思考 は堂々巡りをするばかりでどこにも滅郎を導いてくれな かった。頭の中には、三人組の姿がくっきりと浮かび上 がり、珍妙なギターの音と歌が溢れかえるばかりだった。 (24) ふと気がつくと体の感覚がおかしかった。自分の体が 木偶人形になってしまったかのようだ。 自分がキッチンのテーブルに座っており、左手でテー ブルの上のコップを軽く握っていることは問題なく認識 できるし、思考自体は正常に働いている。ところが、目に 写る光景は映画の書き割りでも見ているかのように非現 実的な感じがし、自分の体が自分のものと思えない。体 から全ての力が抜けてしまったかのようで動くことがで きない。しかし、動きようがないというよりは、動こう という気持ちが起こらないのだ。まるで意志というもの がどこかへ消え失せてしまったかのようだった。 もはや自分のものではない自分の体が虚無で満たされ ていくのを滅郎は感じた。空虚なのにもかかわらず、得 体の知れぬ何ものかに満たされているため、手と腕が不 愉快なまでに厚ぼったい。体の中の空虚さが凝縮して次 第に熱を増していき、もうじき爆発するのではないかと すら滅郎は感じた。 滅郎は無理に動こうとはせず、ただそのままそれが過 ぎ去るのを待った。 怖くなかったわけではない。今までにも似たような状 態を何度か体験したことがあったが、そのいずれのとき も滅郎は恐怖を感じたし、まして今回のものは今までの 中でももっとも深い体験だった。もうこの状態から出ら れないのではないかと思うと、滅郎の恐怖は今にも膨れ あがり破裂しそうだった。だが滅郎には、このまま流れ にまかせれば、やがてこれは終わり、また普通の自分が 戻ってくるはずだという、根拠のない確信があった。そ こで滅郎は恐怖心をなんとかなだめた。 そして滅郎は待った。 やがてそれは去った。 それが三十分だったのか一時間だったのか、それとも ほんの二、三分のことだったのか、滅郎には分らなかっ (25) たし、知りたいとも思わなかった。 滅郎は残っていた泡盛を飲み干すと立ち上がり、着替 えもせずにそのままベッドに潜り込んだ。 2 そして、一日が経ち、二日が過ぎ、一週間、二週間。気 がつくと何事も起こらないまま一ヶ月が過ぎていた。 その頃には滅郎はあの奇妙な三人組のことはほとんど 忘れかけていた。最初の一週間ほどは部屋に帰ると誰か が潜んでいるのではないかと気にかかり、部屋のあちこ ちを確かめるようなことが続いた。それとは対照的に、会 社では仕事に没頭し、週末は生子とのデートに意を注い だ。そうやって日常的な生活を続けているうちに、滅郎 はその出来事を意識の片隅に追いやり、大きな喜びはな いにしても平穏無事な日々を送るという、慣れ親しんだ 状況の中に自分を滑り込ますことに成功しつつあった。 その日、会社帰りの滅郎は、あまりの暑さに根を上げ、 改札を出ると駅前のビルのビアガーデンに向かった。 滅郎は冷房が苦手だった。列車はできる限り弱冷車に 乗るが、それでもたいてい寒すぎて長袖のシャツをはお る。その寒い列車から降りるとほっとするくらいのこと が多いのだが、その日は違った。東京では連日四十度と いう猛暑が続き、しかもその日は温度に加え、猛烈な湿 度が襲いかかってきていた。六時を回っているというの に、暑さと湿気が街を支配している。地球温暖化という 言葉が滅郎の頭に浮かんだ。 駅前の冴えないショッピングビルに入り、屋上まで階 段を昇っていく。暑さでバテている身に七階分の階段は こたえたが、冷えたビールをうまく飲むためと思えば天 国へ至る階段と考えることもできた。 (26) 壁が高く、座ってしまえばおおむね空以外何も見えな い殺風景なビアガーデンの席で、空豆をつまみに滅郎は ビールを飲んだ。平日でもあるし、まだ時間が早いせい だろう、滅郎のほかには客もほとんどいない。がらんと した灰色のビアガーデンで、力の抜けるようなハワイア ンを聞くともなしに聞きながら、滅郎はビールを飲み干 した。 アルコールが入って気持ちが軽くなった滅郎は、夏の 夜の生ぬるい空気の中、自宅への道をのんびりと歩いて いた。ようやく少し気温も下がり、まだ空気はじっとり と絡みついてくるのだが、今の滅郎には、その重い空気 が肌をなでるのも心地よいものに感じられた。仕事で抱 えるプロジェクト上の問題も、酔ってリラックスした滅 郎には、なんであんなにピリピリして考え込んでいたん だろう、どうせなるようになるんだからと、軽く受け流 すことができるのだった。 足取りも軽く、ゆっくり歩いていくと、鉄筋アパート の入り口が近づいてくる。植え込みのサルスベリの白い 花がひときわ鮮やかに滅郎の目に飛び込んできた。こぼ れんばかりに咲き誇る満開のその花を見ると、滅郎は不 思議と優しい気持ちになった。―――そうだ、もうじき生 子の誕生日だ、今年はどんな花束を贈ろうか……。 そんなことを考えながら階段で四階まで上がり、鍵を 回して扉を開け、後ろ手に閉める。そして明かりを点け ようと手を伸ばしかけたが、何かの気配を感じて、滅郎 はその手を止めた。その場に立ったまま、しばらく様子 を窺う。特に何も感じられなかった。改めてスイッチに 手を伸ばす。 その瞬間である。 スポットライトの光が炸裂した。 あの三人組が、前回と寸分違わぬ舞台装置の中、奇妙 なメキシコ風の衣装を身にまとい、光の中に立っている。 (27) そしてまた、イカレた演奏と歌が始まった。 「メラーーーーーー」 「たーーで」 「メラーー」 「たーーで」「ターーデ」 またも意表を突かれた滅郎ではあったが、今回はその 場で起きている珍妙な状況を眺めながら、考えを進める 程度の余裕はあった。 滅郎は警察を呼ぶことを考えた。だが、この男たち相 手では警察は役に立ちそうにない。かといって他に助け を求める知り合いの顔も浮かばなかった。―――仕方ない、 少しこいつらの出方を見ることにしよう。とりあえず玄 関口に立っていれば、いつでも逃げることはできる……。 「ようこそ、四方さん」団長が底抜けの明るさで呼びか けた。「では本日はまず、メラターデ教団、十の教え、第 二を。一つ、自分のことは自分で責任を持とう」 「自分のことは自分で責任を持とう」ニゴウとサンゴウ が唱和した。 団長は顔に満面の笑みを湛えたまま滅郎をじっと見て いた。またこのナンセンスか……。滅郎はそう思いなが ら深い呼吸をして気持ちを落ち着けようとした。 「さて四方さん」団長は咳払いを一つすると重々しい口 調で話し始めた。「われわれの用件はこの間お伝えしたと おりです。すなわちあなたにわれわれメラターデ教団の 一員になっていただきたい。なにしろあなたはまったく 素晴らしい人間ですからな」 そのままじっと聞いていると頭がどうにかなりそうだっ たので、滅郎は悪いものを振り落とすかのように頭を小 刻みに左右に振った。 「いやいや謙遜なさらないでください」団長は言葉を続 けた。「四方さん、天才という呼び名はあなたのために作 られたようなものじゃないですか。まさに生まれつきの (28) 天才、 はたち 二十歳すぎてもただの人にならない、正真正銘の 天才です」 そこで団長が間をおくと、ニゴウとサンゴウが口を揃 えて言った。 「正真正銘の天才です」 二人の声は見事なまでに重なっていたが、ニゴウの声 には明らかに人をバカにした響きがあり、一方サンゴウ の声は柔らかく人の気持ちを包み込む優しさを持ってい た。その二人の声の対比が滅郎の頭の中に冷たい沈黙を 作り出した。 「さあ四方さん、ではわれわれの一員になっていただけま すね?」団長は滅郎の様子など意に介せず、そう言った。 滅郎が口を開かずにじっと自分の中にこもっていると、 団長は、滅郎の姿を足の先から頭のてっぺんまで二、三 度眺め回したあげく、更に芝居がかった口調で言った。 「沈黙をもって承認の証しとする」 その言葉を聞いて滅郎の中でスイッチが入った。 「ちょっと待ってくれ」 「ほう、何を待ちましょうか、四方さん?」団長は両の 目を見開きくるりと時計回りに黒目を回した。 「お前らの一員になるとかならないとか、そんなことを お前に指図される覚えはこれっぽっちもないんだがな」 「四方さん、わたしのことは、団長と呼んでいただくよ うお願いしたはずですがお忘れのようですね。が、しか し、それはまあ良しとしましょう。そこでです、むろん 四方さんには、仰るとおり覚えのないことに違いありま せんが、それも運命と受け止めていただきたいのです」 「運命だと?」 「そうです、運命、すなわち、定めです。われわれ人間 を含め、この宇宙の全存在は、この世界をつらぬく時の 流れの中、どのような道を歩いていくかということにつ いて、定められた運命があるのです。四方さん、いわば (29) あなたは神によって選ばれたのです。その事実を曲げる ことは誰にもできません」 「分った」滅郎は舌打ちして言った。「お宅のような人 間とエセ宗教論議をしても始まらん。単刀直入に聞こう。 お宅らの狙いは一体何なんだ?」 「狙いなどと、人聞きの悪いことを」団長は柔らかく微 笑みながら言った。そしてまた一つ咳払いをし、体を少 し揺すって居住まいを正してから言葉を続けた。「よろし いでしょう。四方さんを一員として受け入れた以上、も う一歩話を進めましょう」 滅郎は、一員として受け入れた、という団長の言葉に くらくらするものを感じたが、深く息をしてなんとか冷 静さを保ち、口ははさまずに団長の言葉の続きを待った。 「さて、まず一つめのお願いですが……」もったいぶっ た間をとりながら団長は言った。「四方さんが協力してく ださる気になってくださった以上、こちらの件に関して は何ら難しいことはございません」 協力するなんてこれっぽっちも言ってないぞ、と滅郎 は思ったが、今度も何も言わず黙って聞いた。 「つまりですね、四方さんがお仕事で担当していらっしゃ るプロジェクトの情報、これを折に触れてわれわれに報 告していただく、ただそれだけのことなんです。どうで す、まったく簡単なことでしょう?」 「おい、ちょっと待て。どうして俺がそんなことをする んだ。俺が仕事の情報を横流しするような人間だとでも 思ってるのか?」滅郎はイライラしながら言った。 「もちろん通常の仕事なら四方さんはそんなことはなさ らないでしょう」団長は落ち着き払って言った。「しかし です、われわれが今問題にしているプロジェクトは他で もない、例の、軍事関連のものです」 そこで長い間を取ると、団長はじっくり滅郎の表情を 窺った。 (30) 滅郎は考えた。ふん、なるほど、こいつはあのプロジェ クトのことを知っている、社内でもあれが軍事関連のも のであることは数人しか知らないはずなのにな。うちの 会社の情報管理なんてお粗末なものだから、どこから漏 れてもおかしくはない。それにしても、とにかく、それ なりの調査とやらはしているわけだ……。 「そして、四方さん」団長は滅郎の目を見ながら話を続 けた。「あなたは戦争だとか人殺しだとか、そういう類 のものを決して快く思っていない。そうですね? そこ で、四方さんにはそのプロジェクトの情報をわれわれに 流していただく。四方さんが決して疑われることのない よう細心の注意を払った上での受け渡しです。その情報 を使って後々われわれが軍の目論見をサボタージュする わけですが、四方さんにご迷惑がかかることは無論あり ません。どうです、悪い話じゃないでしょう?」 そう言われて、滅郎の頭の中には不可解とも思える想 像が拡がった。 確かにこのプロジェクトは会社の方針に合わせて仕方 なくやっているだけのものだ。技術的には面白みもある から、とにかくやってはいるものの、根っこのところで やりたくない気持ちがあるから、今までの仕事とは違い、 どこか引っかかったまま、うんざりした気分を抱えたま まで、ずるずると仕事を続けている。こいつらのことが どの程度信用できるかといえば、これはまったくの未知 数だが、もしこの状況を逆手に取って、俺の人生のある 種の結ぼれを打開することができるとすれば、それは、 ひょっとして、面白いことかもしれない……。 「どうです、四方さん、なかなかいい話だと思いませんか」 団長は滅郎の心の動きを計ったかのように畳みかけて きた。だが滅郎はそこで頭を振った。 「いや待て。そんなことをして俺になんのメリットがあ るっていうんだ?」 (31) 「メリットとおっしゃいますか」団長は余裕の笑みを浮 かべて言った。「それはいろいろと御座いますよ。四方さ んを一員として迎え入れる以上、われわれといたしまし ても、十二分の用意をさせていただきます。差し当たっ て必要な金額があればお聞かせ願えませんか?」 それを聞いて滅郎は考えた。この進み方はうまくない。 相手のペースにはまってる。俺はやるなんて決めたわけ じゃないんだ。こんな流れは断ち切らなくては……。 「金の話はやめてくれ。俺ははした金でつられるような 人間じゃあない」 「ほう、そうですかな」そう言って団長は、右に立つニゴ ウに顎で合図をした。ニゴウは、すっと後ろ向きにしゃ がむと、スーツケースを取り出して前に置き、かちゃり と音を立てて開けた。そして中身が見えやすいように滅 郎のほうに床の上を滑らせた。 スーツケースには一万円札の札束がぎっしりと詰まっ ていた。 ぎっしりと? 滅郎は思い直した。ぱっと見には万札 がぎっしりに見える。しかし、こいつらの胡散臭さを考 えてみろ。額面通りに信じられるもんか。 「四方さん」団長がにやにやと笑いながら言った。「この 札束が本物かどうか、疑ってますね?」 「もちろんだ。疑って何が悪い」 「いえいえ、もちろん何も悪いことなど御座いません。た だ、これが本物かどうかは、四方さんがお手元において、 実際に使っていただけばすぐに分ることです」 「そんなことはとてもできないね。仮にあんたに協力す る気になって、その金を使ったとする。その途端、強盗事 件か偽札製造の犯人として捕まりかねないじゃないか」 「はっはっは、さすが四方さん」団長は満足そうに笑っ た。「札束を見せられても動じなければ、それが曰く付き のものだったときのことも、とっさに考えていらっしゃ (32) る。それでこそ、われわれもあなたを見込んだ甲斐があ るというものですよ」 心底楽しそうに笑っている団長を見ていると、滅郎の 気力は萎え、頭は空っぽになっていった。何も考えられ ないでいる滅郎の視界の中で、淡々とスーツケースをし まいながらニゴウがぼそりと言った。 「ニセコと札幌と言われちゃしょうがない」 「なんだ、ニゴウ」団長が不愉快そうに言った。 「ニセコと札幌、つまり、ニセ札、でしょう?」 「ニセコと、札幌で、ニセ札!」団長が大きな声を張り 上げた。「ニセコと札幌でニセ札か ! !   う わ っ は っ は っ 。 ニゴウ、お前、北海道出身だったな。いや、うまいじゃ ないか。うひゃひゃひゃひゃひゃ」 団長はしばらくの間、腹を抱えて笑い続けたが、それ を見ている滅郎には何の感情も湧いてこなかった。 「あー、これは、ほんとにおかしい……。」団長は涙を拭 いながら莫迦笑いの余韻を楽しんでいたが、それが治ま ると真顔に戻り、滅郎をしばらく眺めてから言葉を発し た。「さて、四方さん、この辺りでわれわれメラターデ教 団のことを少しご説明しておきましょう」 ぼんやりと聞いていた滅郎の視線は、なぜか彼らがか ぶっているつば広の帽子に引き寄せられていた。この帽 子もポンチョと同じく黒地で、全体的には地味な印象な がら、刺繍や飾りは手が込んでおり、華やかさが感じら れた。遠くから眺めているのに、その銀色の飾りが滅郎 の目にくっきりと写った。 団長は滅郎の様子を確かめながら先を続けた。 「われわれの教団の名、このメラターデという言葉の由 来ですが、四方さんはマタハリはご存知ですか?」 滅郎が黙ったまま団長を見ていると、団長はえへんと 咳払いをして、また口を開いた。 「マタハリというのはですね、マレー、インドネシアの、 (33) いわば英雄とも言えるような女性でしてね。本名をマル ガレータ・ヘールロイダ・ツェレと申しますが、ジャワの 血を引きながらオランダで生まれた彼女は、パリで踊り 子として活躍しておったのです。そこへ第一次大戦が勃 発しました。高級娼婦でもあった彼女はフランスとドイ ツの間で二重スパイとして活動することになったのです」 そこで言葉を切ると、団長はまた滅郎の様子をじっと 窺った。滅郎はじっと立ったまま動かなかい。団長は言 葉を続けた。 「悲劇的なことに彼女は、ドイツのスパイをしていた容疑 でフランス軍に処刑されることになります。彼女は三流 の諜報要員にすぎなかったとする見方もありますが、わ れわれはそのようには考えません。当時オランダに植民 地として支配されていたジャワの血を引く彼女は、国際 的な謀略に飲み込まれ、悲運にも命を落としましたが、彼 女はまだ見ぬ父祖の地、ジャワに対する熱い郷愁の念を 抱き、その地を見るという願いが叶わぬ中、なんとか自 分の生きる場所を見いだそうとして、危険を顧みず、死 を恐れることもなく、スパイとしての活動に身を投じた に違いないのです。彼女のその情熱と勇気がわれわれの 心を打つのです」 そこで団長が間をおくと、再びニゴウとサンゴウが口 を揃えて言った。 「われわれの心を打つのです」 滅郎は自分の意識がふわふわと漂い出すような奇妙な 感覚を覚えた。 「さて、そのマレー、インドネシアの言葉で、赤を表すの がメラという言葉です。われわれの改革への情熱を表す 象徴の色、赤、メラメラと燃え立つ炎の赤です。そして、 わたしが子どもの頃から大好きだった赤い たで 蓼の花、この 花は可憐な小さな花ですが、われわれの小粒でもピリリ と辛い行動の姿勢を表します。賢明な四方さんにはこれ (34) で十分お分りいただけたことでしょう」 そこで言葉を切ると、団長は両腕を頭上に高く上げ、叫 んだ。 「赤き情熱、我らがメラターデ教団、バンザーイ」 「ばんざーい」ニゴウとサンゴウも両手を上に上げて叫ぶ。 「バンザーイ」「ばんざーい」 「バンザーイ」「ばんざーい」 三人の万歳三唱を聞いて滅郎は、できの悪いSF仕立 ての芝居を見ているような錯覚に陥っていった。 部屋の雰囲気が落ち着くのを見計らうかのように、し ばらく間をおいてから団長は言った。 「サンゴウ、四方さんにお土産をお渡ししなさい」 団長の左に立っていたサンゴウは、前回と同じく優雅 な動作で大きなボストンバッグから立派な花束を取り出 すと、滅郎に歩み寄り恭しく差し出した。 「さあ、お取りください」と言ってサンゴウは、呆然と している滅郎に更に高く花束を差し出す。滅郎は夢を見 ているような朧な意識の中それを受け取った。 サンゴウが元の位置に戻ると団長が言った。 「四方さん、本日もわれわれの行動にお付き合いいただ き誠にありがとうございます。では、今日のところはこ れまで!」 威勢の良い団長の言葉が部屋に響くと、ニゴウとサン ゴウはまた手早く荷物を片付けていった。 気がつくとまた滅郎は一人自分の部屋に取り残されて いた。 手渡された花束に見るとはなしに目をやると、それは いわゆる豪華な花束ではなかった。雑草を少し立派にし たくらいの小さな赤い花が、たくさん集まって穂になっ ている、その一種類の花だけを使って大きな花束が作ら れていた。 (35) 滅郎の頭に、子どもの頃、近所の女の子に付き合わさ れておままごと遊びをしたときに使ったアカマンマの花 のイメージが浮かび漂った。 3 滅郎はキッチンのテーブルに一人腰掛け、泡盛の入っ た湯呑みを両手で握りしめていた。しばらく前から滅郎 の頭の中を「二度あることは三度ある、二度あることは三 度ある……」と同じフレーズが繰り返し回り続けている。 彼らの二度目の訪問から再び一ヶ月が過ぎようとして いた。 会社では仕事に打ち込み、週末は生子とデートをする ことで、滅郎はあの三人組のことを忘れ、何とか日々を 過ごしていた。しかし、問題は一人でいるときだった。ふ としたきっかけで彼らのことが頭に浮かぶと、それを意 識から追い出すことが難しくなってきていた。 今日の昼間、会議室でスズキと二人プロジェクトの打 ち合わせをしていたときのことだ。取引先がうるさいこ とを言ってくるため、二度目の大幅な設計の変更を余儀 なくされていた。そのことについて相談をしているとス ズキが言った。 「いや、しかし、まいったなあ。これだけの大規模な設計 変更とはなあ。しかも相手が相手だから、これで済むか も心配だよな。二度あることは三度ある、とも言うしさ」 その言葉を聞いて滅郎の頭には彼らのイメージが浮か び上がった。滅郎はそのやけにはっきりとした映像を振 り払おうと、両手を組んで頭の上に伸ばし、左右に軽く 振って伸びをしながら言った。 「そうだな。そんなことにならなきゃいいんだが」 そして、会社を退けて帰りの混み合った電車の中、前 (36) 触れもなく滅郎の頭にそのフレーズがやってきた。 「二度あることは三度ある、二度あることは三度ある……」 滅郎はほかのことを考えてそのフレーズを頭から閉め 出そうとしたが、しばらくは追い出すことができても、や がてまたそのフレーズは舞い戻ってきた。滅郎は気にす るまいと思い、そのフレーズが頭の中を回り続けるにま かせた。 キッチンのテーブルで滅郎は泡盛を口に含むと、湯呑み を手にしたまま椅子から立ち上がりベランダに出た。も う日が暮れてだいぶ立つというのにまだベランダのコン クリートには昼間の熱気が感じられた。今年は残暑が厳 しく九月に入っても真夏のような毎日が続いている。 じっとりとした空気の中、夜の住宅街をぼんやり眺め ていた滅郎は、ふと寂しさを感じた。自分がこの世の中 でたった一人で生きているような気がした。一体俺の人 生はなんなのか、生きていくことに何の意味があるのか、 そんな疑問が頭に浮かんだ。自分の立っている足下がぐ にゃりと溶ろけ出し、どことも知れぬ闇の中に飲み込ま れてしまいそうな不安がやってきた。 しばらくその不安とともにベランダに佇んでいると、や がてその感覚は薄れていき、長い呼吸をして気持ちを鎮 めようとしている自分に滅郎は気がついた。頭の中を執 拗に回り続けていたフレーズはいつの間にか止んでいた。 滅郎はまた一口泡盛を口に含むとキッチンに戻った。 キッチンのテーブルに座り直した滅郎は、湯呑みに泡 盛をもう一杯注ぎ、平らになった気持ちの中、彼らのこ とを改めて考えてみようと思った。 しかし考えるといっても何をどう考えたらいいのか… …。この ひとつき 一月の間、滅郎は彼らのことはできるかぎり考え ないようにしてきた。考えても仕方のないことだと思っ たからだ。誰かに相談しようかと思いもした。だが、こ んな奇妙な事態を一体誰に相談したらいいのか。誰に相 (37) 談してもこちらの精神状態を疑われるのが落ちという気 がした。彼らとは自分一人で立ち向かうしかない、彼ら の手口を考えるとそれ以外の選択肢はない、そう滅郎に は思えた。だからといって、滅郎に何ができるかと言え ば、特に有効な対策が打てるわけでもない。彼らの揺さ ぶりに動じないように心構えを固める、それくらいしか できることはなかった。 ところがその心構えの部分が怪しくなってきた。仕事 をしているときや人に会っているときはまだ良かったが、 一人でいるとふいに彼らの映像が頭に浮かぶ。スポット ライトに照らされて奇妙な衣装で奇天烈な演奏をする三 人の男たち、団長の不愉快なまでに落ち着いて尊大な様 子、ニゴウの酷薄な態度、そしてサンゴウの完璧なまで に洗練された振る舞い……。そんなイメージが頭の中に いったん浮かぶと、なかなかそれを振り払うことができ なかった。そして、彼らのイメージが頭の中で暴れ出す と、得体の知れない焦りに取り憑かれ、いつもの自分の 落ち着きを取り戻すことが次第に難しくなってきていた。 気が狂うというのは、こういう状態を言うのかもしれ ない、と滅郎は思った。 この一週間ほど寝つきが悪く眠りも浅かった。夜中に 目が覚める。いったん目が覚めるとそのままでは眠るこ とができないので泡盛をあおった。こんなことを続けて いればアルコール依存症になるのではないか……。 このような状態でよく仕事ができるものだと我ながら 思ったが、この異常な緊張状態がある種のエネルギーと なるのか、昼間の日常には差し障りがないどころか、今 までより充実しているくらいなのであった。 だが、これを続けていては、いずれ体力的な限界が来 るだろう。そうなったとき日常というものが、砂で作ら れた城のように容易く崩れ落ちるさまが、滅郎の頭の中 にくっきりと映像を結んだ。恐らく彼らの狙いはそこに (38) あるのだろう。俺を精神的に追い詰めて、落とそうとし ているのだ。彼らの手に乗ってはダメだ。滅郎は頭を振 るって力を呼び覚まそうとした。 翌日滅郎が会社に着いてコーヒーで一服していると、 スズキがにこにこしながら滅郎の机にやってきた。 「滅郎、いい知らせがあるぞ」スズキが思わせぶりに 言った。 「なんだ、いい知らせって」滅郎は素っ気なく聞き返した。 「お前の反応はまったくひねくれてるなあ。いや、とに かくいい知らせなんだ。お前のメビウス・ツイン・リン グズな、あれがJCNに売れそうなんだ」スズキは滅郎 の肩を叩きながらそう言った。 「JCN? ジャパン・コンピューティング・ネットワー クか?」 「そうだ、お前のメビウス・リングに大物が食いついてき たんだ」スズキはこぼれんばかりの笑みを浮かべていた。 メビウス・ツイン・リングズは、滅郎がしばらく前に 出した特許の愛称で、社内ではメビウス・リングと呼ば れるのが普通だった。滅郎としては会社がせっつくから 仕方なく出した特許でしかなかったのだが、スズキはそ れをいたく気に入っており、あちこちに売り込みを図っ ているとは聞いていた。それで、滅郎は聞いた。 「JCNと言ったって、いくら出すっていうんだ。どう せ大した額じゃないんだろう」 「いやいや、これが実に大したことがあるんだが、それ はちょっとまだ正式に決まった話じゃないから、今のと ころは内密に、ということでな」 こんな大きな声で話しておいて何が内密だと滅郎は思っ たが、そのことには特に触れずに言った。 「そうか、じゃあ、そっちはとにかくよろしく頼むよ」 「おお、まかせとけ。これがうまくまとまったら、今度 (39) こそお前にも好きなようにやらせてやれるからな。期待 して待ってろよ」 そういうとスズキはにこやかに去っていった。 スズキの言葉なんて当てになるもんじゃない、そう思 いながら滅郎はその日のスケジュールの確認に取りかか った。 会社が終わると滅郎は、電車に乗っていつもの経路で 帰ったが、自宅の最寄り駅では降りず、二駅先の、急行 が止まり大きなショッピングセンターのある駅まで行っ た。そのショッピングセンターの三階に心療内科ソウル フルクリニックはあった。 会社の人間で心療内科の世話になっている人間は何人 か知っていたが、自分が行くのは初めてのことだった。子 どもの頃に聞いたような昔の精神病院とは違うのだと頭 では分っていても、そこで何が起こるのかと考えると、滅 郎は軽い不安を感じた。 扉を開けて入ると、待合い室は小綺麗だったが、どこ か息詰まる空気が充満している。その待合い室のソファ に腰をかけて優に一時間は待たされることになった。一 緒に待っている他の患者たちは、男女ともに大体は会社 員風だった。彼らの様子に目立っておかしいところはな いのだが、重たいような、そわそわするような、妙な空 気が漂っている。待合い室ににいるだけで反って調子を 悪くしそうだったが、とにかくそこで待つしかない。 ようやく受け付けから呼ばれたときには、滅郎は目を 閉じすっかり自分の中に引きこもっていた。受け付けの 女が自分の名前を繰り返し呼び、何度めかになって、滅郎 はようやくそれに気がついた。受け付けまで行くと、女 はいらだちを隠せない様子で滅郎に診察室を示した。 診察室の医者はまだ若い神経質そうな男だった。滅郎 が夜眠れないので薬がほしいというと、いつ頃からかと (40) か、どの程度眠れないかなどの簡単な質問をするだけだっ た。滅郎は込み入った話はしたくなかったので、彼らの ことは一切言わず、会社のことで眠れないというように 説明しようと思っていたのだが、そういった類のことは まったく聞かれなかったのでほっとした。医者は、では、 お薬を出しますので、と言って、睡眠導入剤の簡単な説 明をすると、診察は十分もかからずに終わった。 滅郎は同じフロアにある薬局で薬をもらうと、駅の改 札口へ向かって歩き出した。重い足取りで歩きながら、ど うやら一区切りついたと思い、慣れないことをしたあと のくたびれ果てた感覚を感じながら、とにかくビールを 飲もうと滅郎は思った。 駅構内のざわつく店に入り、中ジョッキとペペロンチー ノを頼む。空腹はそれほど感じなかったが食べた方がい いと思った。やってきたビールをぐいと飲み、やや茹で すぎで塩気の足りないスパゲティをつついていると、よ うやく気分が落ち着いてきた。これから何がどうなるの かと思うと漠とした不安を感じはしたが、とにかく何と かやっていけそうだという思いもわずかながら湧いてく るのを感じた。 家に帰った滅郎はキッチンのテーブルに腰を下ろすと、 木綿地のリュックから薬局でもらった説明書きと薬の袋 を取り出した。大したことが書いてないおざなりな説明 書きに一応目を通してから薬を取り出し、処方された量 の倍量を口に含む。流しまで行くと蛇口の水を手に受け てそのまま口に注ぎ、薬を流し込んだ。まだ時間は早かっ たが、疲れを感じていた滅郎は服を脱いでベッドに潜り 込んだ。 しばらくすると急に眠気が襲ってきて滅郎は泥のよう な眠りに落ち込んでいった。 (41) どこか頭の内側の遙か遠くの片隅に、滅郎は何物かの 気配を感じていた。それが一体何物なのか、確かめよう として知覚の触手を伸ばしてみるのだが、もう指が届い てもいいはずと思うのに、その何物かは手のひらからさ らさらとこぼれていく砂粒のように小さな闇の間へと姿 を隠してしまい、はっきりと捉えることができない。滅郎 が触手を伸ばすと、そのものはするりと身をかわす。そ んな知覚の追っかけっこを幾度となく繰り返しているう ちに―――。 突如世界は光の爆発で切り裂かれた。 「メラーーーーーー」 「たーーで」 「メラーー」 「たーーで」「ターーデ」 まだ回転を始めようとしない滅郎の頭に、あの、もは や馴染みのというしかない、不愉快な歌と演奏が凶器と なって襲いかかってきた。薬の効きが残っていて不自然 に重い頭と体になんとか力を入れ、滅郎はベッドの上で 上体を起こした。 例の三人組がいつもの衣装を着て、スポットライトの 光のなか輝いて立っている。今日はキッチンに陣取り、て んでんばらばらに、だが不可思議な調和を持って教団の テーマソングを歌い続けた。 「われらは」 「メラ、ターデ」 「赤く赤く」「燃えるーー」 勝手に燃えてろ……。靄がかかったままの意識の中、滅 郎は力なく思った。ただし人を巻き込まないでくれ……。 「ようこそ、四方さん」演奏が終わると団長は、あくま で朗らかに滅郎に呼びかけた。「こんな夜分遅く、しかも お休みになっているところに押しかけまして、誠に申し 訳ありませんな」 (42) 言葉だけは礼儀正しくそんなことを言っているが、悪 いことをしている意識のかけらもないことは、その口調 を聞けば火を見るよりも明らかだった。 「では、本日も、メラターデ教団、十の教えの第三を。一 つ、地球は一家、 くさ 草 むし 虫 けもの 獣すべてが兄弟姉妹」 「地球は一家、草虫獣すべてが兄弟姉妹」ニゴウとサン ゴウが唱和した。 次の瞬間ニゴウがぱちんと両手を合わせた。 ニゴウは叩いた手を開き、右の人差し指で左の手のひ らをぴっとはじいた。そして再び両の手を胸の前で合わ せると言った。 「 な 南ー む 無ーー」 「なんだ、ニゴウ」団長が言った。「蚊か。敬虔に祈るこ とはよいが、虫けらだって兄弟姉妹と唱えたばかりなの に、その舌の根も乾かぬうちに、もう殺生か」 「団長」ニゴウは答えた。「兄弟姉妹を殺生しちゃあいけ ないという法がありましたかね?」 「はっはっはっ。ニゴウ、お前の言うことは相変わらず ラデイカル 根源的じゃないか。そこがお前の良いところだ」 二人の、それが日常、とでもいうかのような言葉のや りとりに、滅郎は腰の奥辺りが冷たく固まっていくのを 感じた。 するとサンゴウが口をはさんだ。 「団長、ニゴウ、お二人がそんな物騒な話をしているか ら四方さんが怯えてらっしゃるじゃないですか」 不思議なことにそのサンゴウの柔らかい声を聞くと、 滅郎の腰のしこりは軽くなり、気分が楽になった。だが、 とようやく回転し始めた頭で滅郎は思った。これも彼ら の手の内に違いない。 滅郎の様子を見ながら団長は言った。 「サンゴウ、お前は本当によく気がつくな。お前の気遣い (43) のおかげで四方さんも少し気分が落ち着いたようだ。こ れでまたゆっくり話ができるというものだ」 団長の顔に満足の笑みが浮かんだ。 まったくうんざりする、滅郎は思った。どうして俺がこ んな茶番に付き合わなきゃならんのだ。そうだ、こんな バカげた奴らと付き合う必要なんて、こっちにはこれっ ぽっちもないんだ。ただし、こいつらが自分たちの都合で 勝手に現れる以上、こいつらの相手をしたくないんなら、 まったく不愉快だが、こっちから逃げ出すしかない……。 そう考えながら三人の様子を窺っていた滅郎の目が彼ら のかぶるつば広の帽子に止まった。すると頭にふっと言 葉が浮かび、滅郎は無意識のうちにぼそっと呟いていた。 「ソンブレロ」 「四方さん、この帽子の名をご存じでしたか。その通り です。ソンブレーロ!」団長は声を高めて、巻き舌のそ れらしい発音で言った。 そして、そのつば広の帽子を右手で取ると胸の前にか ざし深々とお辞儀をした。それに続いてニゴウとサンゴ ウも動作を合わせ帽子を取りお辞儀をした。その芝居が かった仕草を見ていると滅郎の中のうんざり感はいや増 した。 「四方さん、まったく申し訳ないことです」団長が本当 に残念そうな顔をして言った。「われわれとしても、これ で精一杯礼儀正しくやっているつもりなのですが、どう やらわれわれの一挙手一投足が四方さんの神経を逆撫で してしまうようですなあ」 それが分ってるんなら、とっとと帰ってくれと、滅郎は 怒鳴り散らしたい気分だったが、薬で頭も体も重く、と ても大声を出す気力は湧いてこなかった。 「ふう、ここらで四方さんの毒舌の一つも聞きたいとこ ろでしたが、今日の様子ではその願いも叶いそうにあり ませんな」団長は肩をすくめて大げさにため息をついた。 (44) 「まあしかし、こうやっていつまでも腹の探り合いのよう なことをやっていても仕方ありません、ねえ? 四方さ んが相手の話だけに、こいつはほんとにシカタないと。 あっはっはっはっ」 あまりの下らなさに滅郎の頭の中は白くなった。現実 感が遠のき、夢を見ているような気持ちになっていく。 「さて四方さん」おもむろにビジネスライクな口調になっ て団長は言った。「それで、先日お願いした件ですが、お 返事のほうはいかがなものでしょうか?」 団長の言葉に現実に引き戻された滅郎は、体を起こし ベッドの上にあぐらをかいて座った。まだ体には十分な 力が入らなかったが、力強い声できっぱりと言った。 「この間も言ったはずだ。断る」 「ほう、そうですか。それは残念至極です」 団長が言うと、サンゴウが口をはさんだ。 「団長は、残念さに断腸の想い、ですね」 「おっ、今日はサンゴウか、なかなかうまいじゃないか。 団長は断腸の想い、か。うわっはっはっはっはっ」 滅郎はまた意識が遠のくのを感じた。 「いやいや、しかし」笑いが収まると滅郎の様子には構 わず団長は続けた。「四方さんのその意志の固さには大変 敬服いたしますよ」 団長は感心感心というように頷いて見せると更に言葉 を続けた。 「それでは二つめのお願いといきましょう」 団長がニゴウとサンゴウに目で合図を送る。そして再 び奇天烈な演奏が始まった。 「あーー、あなたにーお願いがー、あるのよっ」 「あるのよっ」 「あーー、どうかお願いかなえてー、くださいっ」 「くださいっ」 ラテンのような、演歌のような、しかも音程もリズム (45) もめちゃくちゃなイカレポンチの音楽だ。それを聴くと 滅郎の思考は、またどこか別の世界に彷徨い始めた。 つまり一体このどこに真面目に考えるべきことがあるっ ていうんだ? このおかしな三人組はとにかく俺の精神 状態を脅かしている。だが実際問題のところは、夜のうち に俺の部屋に勝手にやってきては少しばかり騒いで帰っ ていくという、ただそれだけのことじゃないか。確かにニ ゴウとかいうやつはかなり危ない感じがするが、三人全 体として見てみれば、それほどの危険があるとも思えな い。こっちが気にしすぎるからいけないんであって、こん なことは大したことないんだと開き直ってしまえば、案 外どうってことないって話になるはずだ。もちろん、そ のどうってことないというふうに受け止めきれないとこ ろが問題なんだが、とりあえず眠剤はもらったわけだし、 今を乗り切れば、なんとか毎日を回していくこともでき そうじゃないか……。 そんなことを考えていた滅郎の意識がようやく部屋の 中に戻ってくると、イカレた演奏はいつの間にか止み、そ の場は静寂に包まれていた。滅郎が団長に視線を向ける と、団長は口を開いた。 「四方さん、大変結構です。われわれの演奏をものとも せず、あるいはひょっとすると、われわれの演奏を乗り 物として、そうやって自分の世界に入っていくことがで きるとは、これはまったく希有な才能です」 自分の行動が始終観察されていて、しかもそれが一々 団長の評価の目にさらされているという状況に滅郎は虫 酸が走った。 「そこでです、四方さん。二つめのお願いですが、あな たのその才能をわれわれに貸していただきたいのです」 団長は思わせぶりに間を取った。滅郎はなんのことを 言っているのかといぶかしく思いながら続きを待った。団 長は芝居がかった動作で手のひらを使って滅郎を指すと (46) 言った。 「あなたの、セキュリティギークとしての才能です」 その言葉を聞くと滅郎の頭の中は静まりかえり、耳に はキーンという生理音が響き渡った。体中の全ての細胞 が活性化するような不思議なエネルギーの流れを滅郎は 感じたが、それがどこからくるものなのかは、滅郎にも 分らなかった。 滅郎の目は団長の胸の辺りを見ていたが、その右にい るニゴウと左側のサンゴウが視界の中に妙にくっきりと 写っている。それだけではなく、視界に入る限りの自分の 部屋全体が異様なまでの明瞭さで頭の中に像を結び、そ れでいて自分が何かを見ているという意識が滅郎にはな いのだった。 「ギークと聞いて、ギィクッとしましたかね? ふっふっ ふっふっふっ」 団長のその耳障りな含み笑いを聞いて、滅郎は少し現 実に引き戻された。 「四方さん」団長は言葉を続けた。「あなたの表の顔は会 社勤めの平凡なソフトウェアエンジニアです。むろん平 凡とはいえ有能なわけですがね。ところがその裏に隠し ている、闇のセキュリティギークとしての顔も、われわ れはよく存じ上げているわけです」 滅郎はぼんやり視線を部屋の中に漂わせたまま団長の 言葉を聞いていた。子守歌でも聴いているかのように滅 郎の心は静まりかえっていた。 「インターネットの裏の世界で知らぬものはいない タンド tAnnEd- ブルー blUE 、その世界ではむしろミスターtbとして知られ ておるわけですが、その人物が リアル 現実の世界では一体何物 なのか。これを突き止めるにはわれわれの力をもってし ても誠に苦労しました。」 そこで団長は言葉を切ってサンゴウの方に顔を向ける (47) と言った。 「そうだな、サンゴウ?」 サンゴウは恭しく頷くと言葉を引き継いだ。 「まったく今回の調査は難航を極めました。けれど我が 教団の辞書に不可能の文字はありません。現にこうして われわれは四方さんの目の前に存在するわけですから」 サンゴウは嬉しそうな表情を浮かべ柔らかく滅郎に微 笑みかけた。滅郎はゆっくりと頭を左右に振るった。 「さあ、四方さん。いや、もう、ミスターtbと呼ばせ てもらった方がよいでしょうな」団長が言った。「われわ れは是非ともあなたの能力を我が教団のために役立てて ほしいのです。あなたの才能とわれわれの力を合わせれ ば、世界征服は無理としましても、この悪徳うずまく現 代社会の中に正義の一大勢力を築きあげること、これは 容易いことです。ミスターtb、さあ、われわれと一緒 に夢に向かって進みましょう!」 滅郎は唇を舌で舐め湿らせてからゆっくりと言った。 「どうもよく分らんな……。何か勘違いをしてるんじゃな いのか? 俺は確かにソフトウェアエンジニアだし、自分 で言うのもなんだがそれなりの才能もあるつもりだ。そ して俺が軍事関連のプロジェクトを扱っているのも事実 だ。そこまではお宅らの調べたとおりだし、何度も言っ ているとおり、その件でお宅らに協力するつもりはない。 だが、そのギークがどうしたとかミスターなんとかとか、 そいつはいったい何の冗談なんだ? 俺には見当もつか んな」 「はっはっはっ、そうきましたか」団長は予想していた 通りの冗談の落ちを聞いた、とでもいうように高らかに 笑った。「ではまあ、四方さん、とりあえず今しばらくは そう呼ぶことにいたします。しかし、四方さん、どちら が冗談を言っているかといえば、これはあなたのほうと いうことになりますが、まあ、いいでしょう。なかなか (48) 面白い冗談ですし、しばらくはそれに付き合うことにし て、四方さんは有能だがごく普通のソフトウェアエンジ ニア、そういうことにしておきましょう」 「団長」ニゴウが口を開いた。「まだるっこしいことはこ のくらいにしときませんか。この野郎、平気で知らばっ くれやがって、一発シメなきゃ話が進みませんぜ」 ニゴウはそこまで言うと、両手の指を組み合わせてから 反り返らせた。関節が派手な音を立ててぼきぼきと鳴った。 「ニゴウ、お前の気の早さは相変わらずだな。いいか、わ れわれの交渉はあくまでも紳士的なものでなければなら ない。そのことはお前にもとうに分っているだろう」 「お言葉ですが、団長、その紳士的な交渉とやらも結局 は決裂しちまって、最後には力がものをいうことになる ―――。大抵そうじゃありませんか」 「はっはっはっ、お前は本当に正直にものを言うなあ。お 前の言うことも確かにもっともだが、なにしろ今回の交 渉相手は四方さんだ。この方には是非ともご自分の自由 意志で、みずから率先して、われわれの一員になっても らわなければならん。そうでなければ、彼の能力を十全 に発揮してもらうことができんからな。そういうわけで だ、ニゴウ、お前の出番はあるにしてもまだまだ当分先 だ。今はまず、サンゴウ、ミスターtbについての調査 結果を四方さんに説明して差し上げるんだ」 「かしこまりました」そう言うとサンゴウは、足下に置い てあったスーツケースの中から折りたたみ式のアルミの テーブルを取り出して拡げ、更に小型のコンピュータと プロジェクタを取り出すとその上に置いて配線した。そ の間ニゴウはスクリーンを設置していた。滅郎は感情の 麻痺した冷たい視線でその光景をぼんやり見ていた。 準備が終わり、プロジェクタに投影されたのはこんな 文字だった。 (49) tAnnEdblUE (mr. tb) 報告書 画面の左下にはカードにあったのと同じ、赤い蓼の花 に見えなくもないマークが映っている。 サンゴウはコンピュータを操作して画面を切り替えな がら説明を始めた。画面には英語の新聞や日本の新聞が世 界規模のネットワークダウンを報じる映像が映っている。 「四方さんもご存知とは思いますが、ミスターtbは世 界的にその名を知られたセキュリティギークです。二年 前の九月十一日、ペンタゴンを始め、アメリカの様々な軍 事関連のネットワークシステムが同時に攻撃を受け、数 時間程度ではありましたが世界中のインターネットが混 乱に陥るという事件が発生しました」 滅郎もtAnnEdblUE という名前には聞き覚えがあった し、仕事柄その事件についてもおおまかには知ってはいた。 「この事件は、発生した日付からアラブ系のネットワーク テロではないかと取り沙汰されましたが」サンゴウは画 面を切り替えながら話を続けた。「FBIの捜査により、 事件を起こした実行犯はアメリカ国籍の少年たちが構成 するハッカーギャング団であることが判明し、事件の後 しばらくして全員が逮捕され現在裁判が進行中です。そ して、彼らがこの事件に使ったソフトウェアの作成者が tAnnEdblUE ことミスターtbだったわけです」 そこで団長が口をはさんだ。 (50) 「それだ、 ティービーナック tbnacとか言ったな。素晴らしいソフト だ。そうだろう、サンゴウ?」 「団長、世界最高のソフトと言ってもいいでしょう」サン ゴウが答えて言った。「tbnacすなわち、ツイスティ ング&ブラスティング・ネットワーク・アドミッション・ コントロール、ふー、長い名前だ、私でも舌を噛みそう になります、簡単に言えばネットワークのセキュリティ システムをねじ切って入り込み、内部から噴き飛ばすソ フト、そういうことになりましょうか」 「よし、いいぞ、どんどんぶっ飛ばしてやれ」団長が浮 かれて言った。 「団長、落ち着いてください。そうそうぶっ飛ばすわけ にはいかないのです」 「ん、まあ、それはそうだな」団長は居住まいを正して 言った。 「さて」サンゴウは続けた。「ミスターtbは、ネットワー ク・セキュリティの脆弱性を世間に明らかにするために このようなソフトを作ったわけでして、彼自身は悪質な ハッカーではない、正確な言い方をすれば、彼は決して クラッカーというわけではないのです。しかし、彼は自 分が世に問うたソフトウェアの危険性をよく分っており ますから、ご自分はセキュリティギークのtAnnEdblUE という仮面をかぶって、その正体が社会の目には決して 触れないように大変慎重に行動しておられる、そのよう な次第です」 そこまで聞いて滅郎は口を開いた。 「tbの話は分ったし、お宅らが何を企んでいるかも大 体見当がついた。しかし、もう一度言うが俺はtbなん てやつは知らん。それにだ、仮に俺がtbだったとして、 どうしてクラッカーでもないtbがお宅らに協力するわ けがあるんだ? 全然話の筋が通らないじゃないか」 「それはどうでしょうなあ、四方さん」団長が不敵な笑 (51) みを浮かべて言った。「われわれはこう見えても、人間心 理のプロフェッショナルを自認しております。そのこと は、今までお付き合いいただいて、四方さんにもある程 度ご理解いただけていると思いますが」 団長は重く腹に響く声色でそう言うとそこで言葉を止 め、滅郎ののど仏の辺りをじっと見つめた。滅郎はのど に何かがつっかえるのを感じ、軽い目眩を覚えた。一体 こいつらは……。滅郎の両腕に鳥肌が立った。 団長はそんな滅郎の様子には構わず、平然と言葉を続 けた。 「この先はわたしのほうからご説明いたしましょう。われ われが今回ミスターtbにお願いしたいのは、我が教団 でマインドスナッチャーと呼んでいるソフトウェアの開 発なのです。まずミスターtbには、すでに対策がなさ れてしまったtbnacを超える新たなネットワーク侵 入ソフトを作っていただきます。絶対見つからないよう に侵入し、誰にも気づかれることなくネットワークの中 で活動するマインドスナッチャーにとって、肝心要の部 分です。そしてこのソフトは獅子身中の虫のごとく、活 動を続け、いずれそのネットワークを使っている組織自 体を壊滅へと導くのです」 バカな……。滅郎は耳を疑った。ネットワークをダウ ンさせるのではなく、組織を滅ぼすだと? どうしてそ んなことができるっていうんだ? こいつらはやはり頭 がおかしいに違いない……。 「四方さん、われわれがSFのような絵空事を話してい るとお考えですね」団長がまたあの重く響く声色を使い、 滅郎の考えを読んだかのように言った。 その言葉を聞いて、滅郎は顔から血が引くのを感じた。 あぐらを組みその右の腿の上に置いている右手が軽く震 えた。 「ですが、四方さん、これは冗談でもなんでもありませ (52) ん。もう少し説明いたしましょう。マインドスナッチ、す なわち精神的な乗っ取りということですが、これの原理 は至って簡単です。ネットワークに入り込んだ ワーム 虫は、そ こで誰にも気づかれることなく密かに活動します。この 虫は適当な一台のコンピュータに寄生して時折り重要そ うな情報を、偽装して誰にも分らないように送信したり、 あれこれのつまらないファイルを消去したりします。コ ンピュータの設定がちょっとだけ変わっているなんていう のもいいでしょう」団長が微笑みながら話している間、サ ンゴウはスクリーンにもっともらしいプレゼンテーショ ンの映像を切り替えながら流している。滅郎はぼんやり と、このプレゼンは誰に向けて作られたものなのだろう、 と考えた。 「そのコンピュータの持ち主は初めは何も気がつかなく ても」団長は話を続けた。「そのうち誰かがこっそり自分 のコンピュータに触ったのではないかと感じたり、何物 かがネットワークから侵入しているのではないかとの疑 いを持ったりするでしょう。ですが、それが一体何物の仕 業なのかは分りません。そしてこのソフトはそれ以上の ことは何もしません。というより、持ち主が気づいたか 気づかないかのところでそのコンピュータでの仕事は終 えるわけです。そして、対象のコンピュータを変えて、ま た同じ仕事をする。やがてそのネットワークを使ってい る組織には不安が生じ疑心暗鬼が生まれ、組織としての 能力が蝕まれていく……。そしてそのためには、絶対誰 にも見つからない完璧な侵入のための技術が必要と、そ ういうわけなのです。お分りいただけましたかな。ふっ ふっふっふっふ」 団長の含み笑いを聞いて、滅郎は体から力が抜けてい くのを感じた。 滅郎は考えた。絶対誰にも見つからない完璧な侵入な どということはあり得ないし、こいつらの言うようにそ (53) んなにことがうまい具合に運ぶとも思えない。だがしか し、これは技術的には可能な話だ。こいつらならやりか ねない……。 「四方さん」団長が続けて言った。「情報戦というもの は実に地味なものです。映画のジェームズ・ボンドのよ うな派手な場面は滅多にあるもんじゃない。それと同様、 ネットワークに潜入するということに関しても、われわ れのように世界を変えるという大きな夢を持って実行す る場合には、そこらの小僧っ子クラッカーたちがやって いるような、ただ派手なだけの腕比べでは話にならんわ けです。地道に、着実に、相手を機能不全に追い込む。そ れと同時に使えそうな情報もいただく。これがわれわれ の今回の計画です」 滅郎は緊張に耐えかね、体を揺すって心を落ち着けよ うとした。 「さて」しばらく沈黙が続いたあと団長が口を開いた。 「今日もずいぶん長い間お邪魔してしまいました。四方 さんは明日もお仕事だ。われわれはこの辺で失礼いたし ます」 団長がそう言うと、いつものようにニゴウとサンゴウ は手際よく道具を片付け、三人はまた風のように去って いった。 翌日も滅郎は普段通り会社に行った。 彼らが去ったあと、眠剤を飲んで寝過ぎてもまずいと 思い、泡盛をあおって横になったが、ほとんど眠ること ができなかった。それでもなんとか会社に行くと、眠気 を振り払いながら午前中の業務をこなした。 昼少し前に仕事が一段落つくと、早いが休憩を取る、 何かあったら屋上にいるから連絡をくれ、とプロジェク トのメンバーに言い残して、階段で屋上に上がった。オ フィスのある四階から屋上まで三階分の階段は、寝不足 (54) の体にはきつかったが、頭をすっきりさせるのには役に 立った。 屋上の端まで歩き金網に左手をかけると、滅郎は煙草 を吸った。頭を空っぽにして下界を見下ろす。コンクリー トのビルが建ち並ぶ、なんの変哲もない街並みだ。九月 の日射しがまだ暑かったが、滅郎にはその暑さこそが生 きている実感であるかのように感じられた。遠く線路の 上を銀色の列車が滑るように走り、駅に入っていくのが 見える。その模型のような小ささに滅郎はなぜか哀しみ を覚えた。 背後にばたばたいう足音を感じて振り向くと、スズキ が全身から興奮を発しながら近づいてくるのが見えた。 だが、滅郎の目はスズキの後ろ、階段室の周りに植え られた何本かの木々に吸い寄せられた。そのうちの一本 はサルスベリで、白にも近い淡いピンクの花をつけてい る。もう盛りを過ぎた夏の終わりの寂しげな花だった。 「滅郎、大ニュースだ!」スズキが大きな声で言った。 滅郎は無表情にスズキの顔を見た。 「メビウス・リング、本当に売れたぞっ ! ! 」 ス ズ キ は 喜 びに打ち震えながらそう叫んだ。 メビウスか、と滅郎は思った。スズキは興奮しながら話 しを続けたが、滅郎の頭にはその言葉は入ってこなかった。 メビウス・リングという言葉が、滅郎の頭に今の自分 の状況を浮かび上がらせた。気の進まない軍事関連の仕 事をしている自分、生子との関係をこれからどうしてい けばいいのか迷っている自分、そしてあいつらの誘いに、 乗るわけがないと考えながらも、彼らと一緒にやってい る光景をどうしてか想像してしまう自分……。 滅郎は、これから自分が選択を迫られることになる状 況を、善と悪という言葉で捉えてみようとした。 つまるところ、善とか悪とかいうものはメビウスの輪 の表裏のようなものなのだ。表だと思って見ているとこ (55) ろをずっと辿っていくと、いつの間にかそこが裏になっ ていることに気づく。そのときそこは確かに裏なのだが、 更にそれを辿っていくと、またいつの間にか表に戻って いる。 善と悪も結局はそれと同じだ。ある立場から見て正し いと思える行動を取っているとき、そこからつながって いる様々なものを辿って行動を続けていくと、どこでも 間違ってなどいないはずなのに、ふと気がつくと間違っ ているとしか言いようのない立場に立っている自分を見 いだす。そこでそのことに動揺したりせず、冷静につな がりを辿って行動を続けていけば、再び正しいと思える 場所に戻っていくことができる。 しかし、と滅郎は思った。俺はどうもそういう曖昧な あり方は苦手だ。なんとかしてその状況を断ち切ること はできないのか。難しいにしてもそれを断ち切る方法が どこかにないものなのか。そして、もし断ち切ることが できたとして、そのとき果たしてどちらが表になり、ど ちらが裏になるのか。いや、自分はどちらを表として、ど ちらを裏とするのか。 そう考えてはみたものの、滅郎には、自分が本当に何 かを断ち切りたいと思っているのかどうか、そこのとこ ろがどうにもはっきりしなかった。 滅郎は自分のこれからを思い描こうとした。やつらは この先どんな手で俺を落とそうとしてくるのか。俺はそ れにどこまで抵抗できるのか、果たしてきちんと日常の 世界に留まることができるのか。あるいはこの日常を生 きていくことができるとして、俺にスズキの言うような 世間並みの暮らしをすることができるのか、それとも一 体、俺はどんな道を歩むことになるのか。 予測のつかない明日を思い、自分の体の奥底に迷いと も恐れともつかない感情がうごめくのを感じながら、滅 郎はスズキの肩越しにサルスベリの花が淡く風に揺れる (56) のをぼんやりと見ていた。(了) (57)